蛭田踏切から妙立寺(みょうりゅうじ)の門前へ移動する。山門をくぐると日蓮宗特有のひげ文字が刻まれた供養塔がいくつかあった。菅茶山編纂の『福山志料』には妙立寺に関して次のような記述がある。
妙立寺
法晶山法華宗本法寺由緒書ニ應永ノ頃日親上人開基ナリ事上人行記ト云書ニ分明ナリト云モトハ寺領ヨホトアリシヨシナリ
約200年前に発生した神辺の大火(文化4年・1807)では宿場・川北のほとんどと川南の大部分が焼けている。火はこの紺屋町まで襲ってきたという(『川南庄屋日記抄』を参照)
山門前から東へ歩いていくと道路脇に小さな十日市胡神社が鎮座しているが、神社より南が焼失を免れたエリアということになる。火事と地震が恐ろしいのは今も同じことで防災意識を高める上でも悲惨な歴史を振り返ることは意味がある。
妙立寺
法晶山法華宗本法寺由緒書ニ應永ノ頃日親上人開基ナリ事上人行記ト云書ニ分明ナリト云モトハ寺領ヨホトアリシヨシナリ
約200年前に発生した神辺の大火(文化4年・1807)では宿場・川北のほとんどと川南の大部分が焼けている。火はこの紺屋町まで襲ってきたという(『川南庄屋日記抄』を参照)
山門前から東へ歩いていくと道路脇に小さな十日市胡神社が鎮座しているが、神社より南が焼失を免れたエリアということになる。火事と地震が恐ろしいのは今も同じことで防災意識を高める上でも悲惨な歴史を振り返ることは意味がある。