福知山市字中ノ「浮世小路(長さ約60m)」は細々長い。高くそびえる原色の壁を眺めながら小路を通って東に進む。それにしても色っぽい名前をつけたものだ。遊女が恋文に目を通すデザインがまた洒落ている。元色街の遊び心につくづく感心した。

夜になるとカラオケを歌うおっさんのだみ声が辺りに響き渡るのだろう。犬の絵が印象的な「パーマ屋」の角を曲がり「アオイ通り」に向かう。二階の窓のくり貫き方がユニークな「スナック」の前で立ち止まりしばらく注視した。

「スナック」の斜向かいが大きな近代的な造りの「仲ノ湯」。歓楽街・中ノには二つも銭湯があるのだ。垢を落としたいところだが、私に許された時間は残り少なくなっていた。

色街の中心部近くにお城のような三階建てがあり一際目立っていた。実にユーモラスな造りだと思い両眼にしっかりと焼き付けた。

遊里の代表的な建造物に共通するのが「ベンガラ塗り壁」だった。平成という時代になっても華やかりし頃を偲ぶのに最適な教材が残っていることに深く感謝した。手の込んだ細工や奥行き、そして圧倒的な迫力は実際に建物の前に立った人間にしか分かりやしない。

朱色の壁を持つ家は三軒あった。最後に目にした建物は一階の壁の一部がベンガラ塗りで二階を巨木の一枚板で覆っていた。これがもし「黒柿」だとしたら、とんでもない値段だろう。

この家の瓦には取っ手のようなものが付いていた。雪にはまったくと言ってよいほど縁のない土地で暮らしている人間が生まれて初めて「雪止め瓦」を見た瞬間だった。


石段を下り終えた私は傍らのコンクリート建築をマジマジと眺めた。色街に足を踏み入れたのである。明治29(1896)年夏に発生した大水害で音無瀬川橋下の堤防上にあった遊廓が流されて猪崎に移転したという話だから歴史は長い。
私は「遊廓は日本における一つの文化」と考える人間である。「遊女にとっては苦界」であるのに対して「好色男にはまさに極楽(花園)」であった。
花街で金が湯水の如く使われ昭和初期までは大きな経済効果を上げた。遊廓周辺の料理屋、酒屋、用心棒などは大いに恩恵を受けたし、税金が入ってくる御上も同様だった。つまり遊女を犠牲にして街全体が潤っていたのである。これが締め付けの厳しい現在との大きな違いだ。

妓楼は男達の目をひくために贅を尽くした造りになっていることが多い。最初に目をつけた建物の玄関や格子には非常に細かい仕事がしてあった。
次に足を止めた建物は往時の勢いを感じさせた。破風、欄干、明かり取りの窓、すべてが豪華だ。玄関脇の大きなブロックのようなものは防火用水だろうか。明かり取りの窓は倉敷市川西町の妓楼で見たものに酷似していた。建てられた年代が近いのだと思われる。

