9月27日の説明会で周辺住民から寄せられた意見や疑問に答える形で2回目の説明会が明日午後7時より旭公民館(福山市入船町1丁目)で行われる。
施工業者は大阪市に本社を構える中堅ゼネコン・錢高組。当初の着工予定より2ヶ月以上遅れているが、これでまとまれば年内に工事は始まるだろう。冒頭の写真は今年の8月上旬に国道2号線・府中分かれ交差点から北方(入船町1丁目及び三吉町南2丁目)を撮影したもの。左端が新本店建設予定地、右端が福山東警察署である。
施工業者は大阪市に本社を構える中堅ゼネコン・錢高組。当初の着工予定より2ヶ月以上遅れているが、これでまとまれば年内に工事は始まるだろう。冒頭の写真は今年の8月上旬に国道2号線・府中分かれ交差点から北方(入船町1丁目及び三吉町南2丁目)を撮影したもの。左端が新本店建設予定地、右端が福山東警察署である。

11月頭の3連休は広島県福山市の中心部(戦艦に例えると艦橋に相当する)でこれでもかと言うほどのイベントが開かれる。2日(土)は恒例の毎土市場(10周年記念 まいどを掛けているの?)。そして3日・4日がイベントのメインとなる。

福山駅の北側でふくやまアート・ウォーク、駅の南側では宮通華歩・元町一番街えびす祭り、国道2号線より南に位置する霞町の中央公園でうずみフェスタなど、盛りだくさんの内容である。

各商店街が同日に催しに参加することに大きな意義がある。これまで羽原川のちょっと西の方に住む住民などから結束力の弱さを指摘されていたが、余計なお世話だ。こちらは「能書きを垂れずにサラリと良いものを手頃な価格で提供する」のがウリ(≒備後国の中心における文化)なのである。福山駅の周辺に大勢の人を集め屋台・露店や既存の飲食店を色々と利用してもらうのが狙いだろう。目が利く市民自らが便利な街(平地)の魅力を肌で体感して欲しい。


福山駅の北側でふくやまアート・ウォーク、駅の南側では宮通華歩・元町一番街えびす祭り、国道2号線より南に位置する霞町の中央公園でうずみフェスタなど、盛りだくさんの内容である。

各商店街が同日に催しに参加することに大きな意義がある。これまで羽原川のちょっと西の方に住む住民などから結束力の弱さを指摘されていたが、余計なお世話だ。こちらは「能書きを垂れずにサラリと良いものを手頃な価格で提供する」のがウリ(≒備後国の中心における文化)なのである。福山駅の周辺に大勢の人を集め屋台・露店や既存の飲食店を色々と利用してもらうのが狙いだろう。目が利く市民自らが便利な街(平地)の魅力を肌で体感して欲しい。


11月3日午後1時半より福山市の宮通りほこてん参道を着物で歩くファッションショーが行われる(主催は宮通りプロジェクト事務局)。大正時代の古着物を現代風にアレンジしたのがミソで今年で3回目となる。


そして元町トライアングル広場(福山神社がある)周辺ではえびす祭りを開催。太鼓の演奏、神楽舞い、紅白餅撒きなどがある。商店街の人間がかつての賑わいを取り戻すために漸く知恵を出し始めた。
商売の基本はお客に喜んでもらい気分よくお金を使ってもらうことである。過去の失敗を反省し原点に立ち戻ることは重要だ。「広島県や市が何もしてくれない(≒もっと補助金をくれ、もっと宣伝してくれ)」と不平を言うだけは問題は何も解決しないのである。生き残りのため身銭を切り頭を下げて寄附を募る覚悟のない町は必ず没落する。ここから脱却しようと思い始めたことは一市民として一応評価しよう。



そして元町トライアングル広場(福山神社がある)周辺ではえびす祭りを開催。太鼓の演奏、神楽舞い、紅白餅撒きなどがある。商店街の人間がかつての賑わいを取り戻すために漸く知恵を出し始めた。
商売の基本はお客に喜んでもらい気分よくお金を使ってもらうことである。過去の失敗を反省し原点に立ち戻ることは重要だ。「広島県や市が何もしてくれない(≒もっと補助金をくれ、もっと宣伝してくれ)」と不平を言うだけは問題は何も解決しないのである。生き残りのため身銭を切り頭を下げて寄附を募る覚悟のない町は必ず没落する。ここから脱却しようと思い始めたことは一市民として一応評価しよう。


子どもの頃によく買った食べ物は大人になっても時々欲しくなる。そう、モスのテリヤキバーガーのように…。呉市のスグル食品が製造するいかの姿フライはロングセラー商品である。

イカを形どったこの魚介加工品は歯応えがある。昔の駄菓子は歯と顎を使って食べるものが多かった。噛み砕いて味わうという動物本来の行為が脳に刺激を与える所為かガキは悪知恵が働いたものだった。現在の年寄が電話で容易に騙されるのは物を嚙まなくなったことが主原因ではないかと私は疑っている。

寄り道はこれ位にして、ちょっと変わった食べ方をご紹介しよう。福山(中心部)のお好み焼きは関西のように混ぜ焼き(府中や尾道とは全く異なるのが面白い)だが、天かす(関東でいう揚げ玉)の替わりに姿フライを砕いて入れる店を結構見かける。私も気が向いた時には同様の作り方をする。おつまみ以外の使い道もあるのだ。

イカを形どったこの魚介加工品は歯応えがある。昔の駄菓子は歯と顎を使って食べるものが多かった。噛み砕いて味わうという動物本来の行為が脳に刺激を与える所為かガキは悪知恵が働いたものだった。現在の年寄が電話で容易に騙されるのは物を嚙まなくなったことが主原因ではないかと私は疑っている。

寄り道はこれ位にして、ちょっと変わった食べ方をご紹介しよう。福山(中心部)のお好み焼きは関西のように混ぜ焼き(府中や尾道とは全く異なるのが面白い)だが、天かす(関東でいう揚げ玉)の替わりに姿フライを砕いて入れる店を結構見かける。私も気が向いた時には同様の作り方をする。おつまみ以外の使い道もあるのだ。

広島県福山市内では飛ぶ鳥を落とす勢いのスーパー・エブリイ。郊外に数多く店舗を構えているが、今回は東福山駅の南に引野新鮮市場をオープンさせた。

国道2号線から店の駐車場までは車が渋滞し、入口前には長蛇の列が出来ていた。入店まで15分程度待った。店外に並べられた果実の中ではバナナ(大きな一房)が安い。


店内は客でごった返し(※入店制限があった)大汗が流れた。広島ホームテレビから3人が取材に来ており男性がカメラを回していた。県内では最も手堅い仕事をする放送局で小回りが利く(笑)

新鮮市場と命名した通り、日本海の魚介(島根県産の剣先イカやノドグロ)などをお手頃価格で販売している。午後7時閉店(売り切れ御免を目指す)という方針はエブリイの挑戦だ。レジ待ちの時に客単価を調べたが、ほとんどの人が2千円前後の買い物をしていた。今後が楽しみな店である。


国道2号線から店の駐車場までは車が渋滞し、入口前には長蛇の列が出来ていた。入店まで15分程度待った。店外に並べられた果実の中ではバナナ(大きな一房)が安い。


店内は客でごった返し(※入店制限があった)大汗が流れた。広島ホームテレビから3人が取材に来ており男性がカメラを回していた。県内では最も手堅い仕事をする放送局で小回りが利く(笑)

新鮮市場と命名した通り、日本海の魚介(島根県産の剣先イカやノドグロ)などをお手頃価格で販売している。午後7時閉店(売り切れ御免を目指す)という方針はエブリイの挑戦だ。レジ待ちの時に客単価を調べたが、ほとんどの人が2千円前後の買い物をしていた。今後が楽しみな店である。


今年も福山市霞町の中央公園で「福山うずみフェスタ」が開催される。11月3日と4日会場では4種類のうずみを提供する。値段は250円、500円、600円、800円だが、初めての人にはワンコインの元祖福山うづみご膳(3日のみ限定200食)がおすすめ。
多分私が昨年神辺宿の廉塾で食べた元祖神辺うづみ御膳と似たような内容だろう。良質なものを可能な限り安く販売するのが福山市(旧深安郡)神辺町のウリだ。それぞれが切磋琢磨することで食文化(伝統+α)を高めていってもらいたい。

多分私が昨年神辺宿の廉塾で食べた元祖神辺うづみ御膳と似たような内容だろう。良質なものを可能な限り安く販売するのが福山市(旧深安郡)神辺町のウリだ。それぞれが切磋琢磨することで食文化(伝統+α)を高めていってもらいたい。


フジテレビ制作の時代劇・鬼平犯科帳(中村吉右衛門主演)第1シリーズは平成元年(1989)7月にスタートした。私が僻地に流刑となって半年以上が過ぎていたが、出来ることなら文化都市広島へ戻りたいという気持ちに変わりは無かった。退屈という責め苦にもだえていた大学3年生を救ってくれたのが、このテレビドラマであった。名作と言われる第二話・本所桜屋敷から見始めたと記憶する。
若き長谷川平蔵と道場で腕を磨いていた岸井左馬之助(江守徹)が淡い恋心を抱いたおふさ(マンキュウ)が何と悪女に変わっていたという話で、時の流れの残酷さが主題であった。平蔵の密偵(お上の犬と蔑まれた元盗人達)へのさり気ないやさしさやエンディングテーマがジプシー・キングスの「インスピレーション」だった(原作者の池波さんもこの曲は気に入っていたらしい)こともあり、鬼平シリーズにどっぷりとはまった。
傑作時代劇を更に楽しむために出版された実録『鬼平犯科帳のすべて』には罪人の捕縛・取調・仕置について詳しい記述がある。中でも黒木喬氏の小論文は凶悪火付け犯を例にとって江戸の治安維持の仕組みを丁寧に説明しており資料的価値が非常に高い。
火災都市 江戸の放火と火刑 *火盗改の取り締まりにもかかわらず頻繁に起きた江戸の火災と火刑の実態は? / 黒木 喬
明和九年(一七七二)の江戸。…二月二十九日…目黒村行人坂の大円寺で出火があったのは午後一時すぎである。…大火が終息したのは翌三十日の午後一時ごろである。
この大火で焼失した町は九百三十四、大名屋敷百六十九、橋百七十、寺院三百八十二、死者一万四千七百人、行方不明四千六百人、明暦三年(一六五七)の振袖火事以来の大火といわれた。
四月二十二日に放火犯が逮捕された。…武州熊谷長五郎坊主真秀という悪党であった。幼少から武家奉公をしていたが、十四歳の時、屋敷の塀に放火し、衣類を盗んで在所に逃げ帰ったが、勘当されて江戸に出た。願人坊主…になったが、ほどなく破門されて無宿人の群に入った。無宿仲間と追はぎ・強盗など悪のかぎりを尽くしたという凶悪犯である。長谷川平蔵は吟味がむずかしいので、町奉行所に引き渡したいと上申した。だが、老中松平右近将監武元は、…重々不届至極に付、町内引廻し、五ヶ所に科書捨札を建て火罪を申付ける…と言い渡した。町内引廻しは牢屋敷を出て、きまった順路で江戸の町々をめぐり、牢屋敷にもどるのだが、火罪の場合は牢屋敷にもどらず処刑場に行くのである。そのさい、日本橋・筋違橋・両国橋・赤坂御門・四谷御門を必ず通る。この五ヶ所に罪状を記した捨札を建てた。八百屋お七を例にとると、…此しちと申女、火を付候とがによって町内引廻し、所々にさらし、火あぶりに行ふもの也…という文言である。火罪とは火あぶりのことで、真秀は浅草(実際には千住小塚原)で処刑されたから、捨札は小塚原にも建てられた。ちなみにお七の処刑は品川(鈴ヶ森)でおこなわれた。
…焼死体はそのまま三日間さらされた。真秀の火あぶりは六月二十一日で、二十六歳で生涯を終えた。
明暦三年(一六五七)から明治十四年(一八八一)まで、江戸・東京は九十三回も大火に見舞われたといわれる。三年に一度の発生率である。この頻発ぶりに着目した西山松之助氏は、江戸を〝火災都市〟と規定された。異常なのは火災の原因に放火が多かったことである。…火をつけて燃え上がった家の人々があわてふためいているすきに金品を盗むという放火の方がはるかに多かった…
江戸は武家政権の所在地であるから、大火後、放置しておくわけにはいかない。ただちに復旧工事が始まり、建築資材を扱う商人、大工・石工・屋根ふき・畳屋・建具屋・庭師などの職人、さらには長屋住まいの下層民に至るまで、景気の恩恵を受けるのである。江戸は大火のたびごとに不死鳥のようによみがえり拡大した。…西山松之助氏は…火事だ、というと、やれ助かった、と思った人が少なからずいたのであると考えられる。したがって、江戸の大火は、こういう人々の間から、かなり広く巧みに火付けをした者がいたと思われる。わからないように火を付けて大きな火事にしたものがいたと考えられるのである(『江戸町人の研究・第五巻』)。と指摘されているが、この見解は正鵠を得ていると思う。
…お七が放火したのは『天和笑委集』によると、…天和三年三月二日の夜のことで、本郷森川宿にあった生家の八百屋近くの商店の軒板のすきまに、綿くずをわらに包んで炭火といっしょにさし込んだだけで、近所の人々がかけつけ、たちまち消してしまった。…実害のないボヤであったからこそ、人々に大きな感動を与えたのではないだろうか。
第一、当時の刑罰をまとめている『元禄御法式』にも、…火を付る者之類、火罪…とあって、たとえばボヤであろうが自分の意志で火をつけた以上は、火あぶりなのである。…女性でも少年でも、けっして容赦はしなかったのである。
凶悪犯の仕置の過程はあまりにもエグイので割愛したが、興味のある人はネットで古本を探されるとよい。罪と罰、世の中の表と裏を小説の中にサラリと描いた池波作品は今も色あせていない。徴兵経験皆無・団塊世代の(自称)歴史研究家とやらが可哀想な者(罪人)の視点のみから過去の出来事を恣意的に評価するのとは大違いである。彼らの低質な作文が読み継がれないのは当たり前なのだ(笑)
若き長谷川平蔵と道場で腕を磨いていた岸井左馬之助(江守徹)が淡い恋心を抱いたおふさ(マンキュウ)が何と悪女に変わっていたという話で、時の流れの残酷さが主題であった。平蔵の密偵(お上の犬と蔑まれた元盗人達)へのさり気ないやさしさやエンディングテーマがジプシー・キングスの「インスピレーション」だった(原作者の池波さんもこの曲は気に入っていたらしい)こともあり、鬼平シリーズにどっぷりとはまった。
傑作時代劇を更に楽しむために出版された実録『鬼平犯科帳のすべて』には罪人の捕縛・取調・仕置について詳しい記述がある。中でも黒木喬氏の小論文は凶悪火付け犯を例にとって江戸の治安維持の仕組みを丁寧に説明しており資料的価値が非常に高い。
火災都市 江戸の放火と火刑 *火盗改の取り締まりにもかかわらず頻繁に起きた江戸の火災と火刑の実態は? / 黒木 喬
明和九年(一七七二)の江戸。…二月二十九日…目黒村行人坂の大円寺で出火があったのは午後一時すぎである。…大火が終息したのは翌三十日の午後一時ごろである。
この大火で焼失した町は九百三十四、大名屋敷百六十九、橋百七十、寺院三百八十二、死者一万四千七百人、行方不明四千六百人、明暦三年(一六五七)の振袖火事以来の大火といわれた。
四月二十二日に放火犯が逮捕された。…武州熊谷長五郎坊主真秀という悪党であった。幼少から武家奉公をしていたが、十四歳の時、屋敷の塀に放火し、衣類を盗んで在所に逃げ帰ったが、勘当されて江戸に出た。願人坊主…になったが、ほどなく破門されて無宿人の群に入った。無宿仲間と追はぎ・強盗など悪のかぎりを尽くしたという凶悪犯である。長谷川平蔵は吟味がむずかしいので、町奉行所に引き渡したいと上申した。だが、老中松平右近将監武元は、…重々不届至極に付、町内引廻し、五ヶ所に科書捨札を建て火罪を申付ける…と言い渡した。町内引廻しは牢屋敷を出て、きまった順路で江戸の町々をめぐり、牢屋敷にもどるのだが、火罪の場合は牢屋敷にもどらず処刑場に行くのである。そのさい、日本橋・筋違橋・両国橋・赤坂御門・四谷御門を必ず通る。この五ヶ所に罪状を記した捨札を建てた。八百屋お七を例にとると、…此しちと申女、火を付候とがによって町内引廻し、所々にさらし、火あぶりに行ふもの也…という文言である。火罪とは火あぶりのことで、真秀は浅草(実際には千住小塚原)で処刑されたから、捨札は小塚原にも建てられた。ちなみにお七の処刑は品川(鈴ヶ森)でおこなわれた。
…焼死体はそのまま三日間さらされた。真秀の火あぶりは六月二十一日で、二十六歳で生涯を終えた。
明暦三年(一六五七)から明治十四年(一八八一)まで、江戸・東京は九十三回も大火に見舞われたといわれる。三年に一度の発生率である。この頻発ぶりに着目した西山松之助氏は、江戸を〝火災都市〟と規定された。異常なのは火災の原因に放火が多かったことである。…火をつけて燃え上がった家の人々があわてふためいているすきに金品を盗むという放火の方がはるかに多かった…
江戸は武家政権の所在地であるから、大火後、放置しておくわけにはいかない。ただちに復旧工事が始まり、建築資材を扱う商人、大工・石工・屋根ふき・畳屋・建具屋・庭師などの職人、さらには長屋住まいの下層民に至るまで、景気の恩恵を受けるのである。江戸は大火のたびごとに不死鳥のようによみがえり拡大した。…西山松之助氏は…火事だ、というと、やれ助かった、と思った人が少なからずいたのであると考えられる。したがって、江戸の大火は、こういう人々の間から、かなり広く巧みに火付けをした者がいたと思われる。わからないように火を付けて大きな火事にしたものがいたと考えられるのである(『江戸町人の研究・第五巻』)。と指摘されているが、この見解は正鵠を得ていると思う。
…お七が放火したのは『天和笑委集』によると、…天和三年三月二日の夜のことで、本郷森川宿にあった生家の八百屋近くの商店の軒板のすきまに、綿くずをわらに包んで炭火といっしょにさし込んだだけで、近所の人々がかけつけ、たちまち消してしまった。…実害のないボヤであったからこそ、人々に大きな感動を与えたのではないだろうか。
第一、当時の刑罰をまとめている『元禄御法式』にも、…火を付る者之類、火罪…とあって、たとえばボヤであろうが自分の意志で火をつけた以上は、火あぶりなのである。…女性でも少年でも、けっして容赦はしなかったのである。
凶悪犯の仕置の過程はあまりにもエグイので割愛したが、興味のある人はネットで古本を探されるとよい。罪と罰、世の中の表と裏を小説の中にサラリと描いた池波作品は今も色あせていない。徴兵経験皆無・団塊世代の(自称)歴史研究家とやらが可哀想な者(罪人)の視点のみから過去の出来事を恣意的に評価するのとは大違いである。彼らの低質な作文が読み継がれないのは当たり前なのだ(笑)
