澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

いまどきの敦煌(3)

2010年04月28日 16時27分51秒 | 中国

★決して謝らない中国人
 昨日、駐日中国大使が「日本側に責任がある」という談話を発表していた。これは、中国海軍が宮古島近海を通過して太平洋に出て南鳥島に近づいたのに対して、海上自衛隊の艦船が追尾したところ、中国海軍のヘリコプターが巡視艇に異常接近したという事件を巡っての発言。
 その少し前には、上海万博テーマ曲の盗作問題が浮上した。盗まれた側の岡本真夜事務所は、抗議することもなく、万博のテーマになって光栄だというようなコメントを発表したので、これは中国の思うつぼだと直感した。案の定、話は奇妙にそらされて、中国人”作曲者”は、あたかも岡本真夜に頼まれてテーマ曲としたかのような弁明をはじめた。
 3月末、私の娘が友達に会いに北京に行った。北京に住む友人が開口一番娘に「人にぶつかったとき、先に謝っちゃダメだよ」と言ったそうだ。
 個人的なレベルでは、この程度の話で住むのだが、外交関係となるとどうなのか?何があっても自らの過ちは認めず、最後には「歴史認識カード」を持ち出す。煮ても焼いても食えない…これが中国の真の姿だ。

 
(回族=イスラム教徒の物売り 蘭州・黄河鉄橋にて)


★平気で列に割り込む中国人
 北京空港の待合いロビーでも経験したが、国際線を待つ中国人でさえ、整列して待つことができない。日本人が並んでいた列に接ぎ木をするように列ができて、いつの間にか「人」という字のような列ができあがった。これがもし、指定席ではない乗り物だったら、どちらの列が正しい列なのかと言い争いが始まり、うんざりするような目にあうことは間違いない。私は終始見ていたのだが、枝葉の列を作ったのは中国人達だった。それでも、言い争いになれば「黒を白と言いくるめる」彼らの能力が存分に発揮されることだろう。

 (マナーの悪い中国人観光客 西安・華清池にて)

★博物館でさえ「骨董品」を売りつける中国人
 西安で連れて行かれた博物館(陝西省博物館)での出来事。新しい建物で、これといった展示品もない。それでも展示物の由来を聞かされたあげく、別室に通されて館員が玉の土産物を執拗に勧める。大雁塔にいったときは、著名な高僧の書を安く頒布するとかで、これまた別室に通された。敦煌博物館でも、同じようなことが…。公共施設という概念がなくなり、公務員でももはやカネもうけしか頭にないのだろうか、と思った。


(西安・大雁塔で会った人民服の老人~列を譲ったら「どうぞ」と日本語で応えた)

★どうしてこんな中国人になったのか…
 上海万博の期間中、会場近くでは住民が洗濯物を通りに干してはならないそうだ。だが、そんなことはお構いなく平気で干している住民が多いようだ。市警が注意すると、注意されたオバサンは「文革時代だったら、反革命分子だよ!」と舌を出していた。たくましいというか、図々しいと言うべきか分からないが、これが中国人だということか。
 われわれは「新中国」「四千年の中国文明」などという言葉にすっかり惑わされてきたが、いま目の前にいるのは礼儀知らずで、どん欲で、人を人とも思わない、溢れるばかりの人数の中国人だ。その昔、毛沢東の中国を褒め称え、日中友好を叫んだ連中は、この現実をどう”総括”するのか?

 結局、中国を語ることは、群盲象を撫でるというお話にすぎなかったのか…。この厄介な隣人は、ますます強大になって、新たな難題を吹きかけてくるはずだ。




 


いまどきの敦煌(2)

2010年04月28日 11時57分46秒 | 中国

敦煌といえば、もう30年以上も前、NHKの特番「シルクロード」で一般の日本人にも有名になった。井上靖の小説でもすでに有名だったが、この番組で初めて紹介された映像でロマンティックな旅情をかき立てられた人も多いはず。そのためか、ツアーに参加したのほとんどは中高年世代で、中にはひとりで参加した70歳代のご婦人もいた。

 (清朝時代の版図)

この図は、清朝時代の「中華帝国」の版図(支配領域)を示すのだが、敦煌は長城の表示が切れた部分にある。「甘粛省」の西はずれの「新彊ウィグル自治区」へ続く河西回廊に位置する。
東京ー北京は約2,100km、東京ー敦煌は、もちろn直行便などないが、西安・蘭州経由で、およそ5,200kmというところか。この距離は、東京ーシンガポールとほぼ同じなので、中国内陸部の広大さがよく分かる。

(清朝時代の冊封制度)

歴史的に見ると、中華帝国がひとつであったことは一度もない。最大の版図となった清朝時代でも、チベットや台湾は清朝の統治が及ばない「化外之民」が住む地だった。万里の長城を境にして農耕民である漢民族と遊牧民が興亡を繰り返した歴史が「中国史」だ。
私たちは、蘭州から敦煌までおよそ1,100kmを夜行寝台列車で移動した。朝早く車外をみると、砂漠というよりも乾燥した黄色い大地が延々と続いていた。「瓜州」駅を出てからだろうか、荒野の中に千基以上もあると思われる風車群が見えた。最新型の風力発電用風車だ。

 (真新しい敦煌駅)

ようやく着いた敦煌駅は、想像以上の巨大な建物。何もない砂漠の真ん中にドカンと建てたという印象。大きくて見栄えがする建物が大好きな中国人の好みがよく反映されている。「西部大開発」の象徴的な建築物なのかも知れない。

 (莫高窟)
 (新築の仏塔から莫高窟を望む)

(左:莫高窟と土産物店   右:莫高窟とオッサン”四人組”)

敦煌市内は、この10年くらいの間に整備されたという印象だ。ガイドブックによれば、街の人口は2万4千人と書かれていたが、市の中心部にある沙州市場というマーケットのにぎわいを見ていると、もっとずっと大きな街ではないかと思える。


(左;沙州市場の風景  右;敦煌市街の大通り)

莫高窟の仏像・壁画は、中国の歴史文物の中でも超一級品なので、観光客が参観できる範囲は極めて限られている。入場にあたってはカメラを預けなければならないし、窟の中は暗いので、懐中電灯は必携だ。カメラは持ち込めないが、携帯電話はOKというのも奇妙だった。多分、中国人の携帯電話には、カメラ機能が付いていないのだろう。

莫高窟と並ぶもうひとつの観光地が鳴沙山。ここは文句なしに、砂漠気分を味わえる。約30年前、私の父(故人)がここを訪れているので、写真を持参して”供養”した。そんなセンチメンタリズムをぶっ壊すかのように、砂漠には観光用ラクダの糞が沢山落ちていた。

(月の砂漠?)
 (父の写真と鳴沙山)

30年前は誰も訪れることのなかった鳴沙山だが、今や有名な観光地。入場料も取られるし、私などは砂山の中腹で「写真を撮ってやる」と言われ、自分のカメラを渡し、ポーズを取って4枚撮ってもらったら、チップを要求された。「チップは禁止なんだが、撮ってあげただろう」と言っているようだったので、5元を渡した。
グループの行動をビデオカメラで取っている人がいたのを気づいていたが、我々の映像を収めたDVDをホテルまで売りに来た。1枚2500円だったと思うが、これは結構な商売だと感心した。もちろん、写真を勝手にとって売りつけるという商売は、あちこちに見られた。

かつての西域も今や金次第のニュータウン。少数民族の文化・居住領域が、漢民族によって次第に浸食されているプロセスを見たようで、何とも言えない気分になる。漢民族による経済発展のおこぼれにあずかれれば、チベット・ウィグルなどの少数民族は現状に甘んじるのだろうかと……。