【 心清水八幡神社 参道に建つ 松陰 「東北遊日記】の碑 】
また、会津と長州とのかかわりに思いをはせた。
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「松陰と会津」2010-03-16
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/1470e23a65793593e0cb5b1df414dc0d
「会津と長州」2010-03-18
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/96f00492bc8ce4409d0970d8d46eb033
と題して、拙ブログに書いた。
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その考察の始まりは、坂下の心清水八幡への参拝から始まった。神社参道に建つ吉田松陰の「東北遊日記」の碑に気づき、以来、参拝の度に碑文を読んでいた。
最近、図書館で、滝沢洋之氏の著作になる「吉田松陰の東北旅行」(歴史春秋社刊)を眼にし、借りて一気に読了した。
著者は、松陰を知る会津人はいるが、松陰が会津を訪ねていることを知る人は少ない。それは会津と長州の怨念により、松陰について記すことがタブー視されていたからと書き、松陰が東北遊紀行で、行きと帰りの2度も会津を訪れていることに注目して、旅の目的や意義を考察している。
(参:遊紀行のコース
(江戸 → 水戸 → 白河 → 会津若松→ 新潟(出雲崎,佐渡)→ 碇ヶ関→ 弘前→ 竜飛崎 → 青森→ 八戸→ 盛岡→ 仙台→ 米沢→ 会津若松 → 日光→ 館林 → 江戸 )
読了して、あらためて会津と長州との交流と、その後の不幸な戊辰の戦い、そして現在に至るわだかまりに一つの歴史の流れを思わざるを得なかった。
著書には、松陰が神社を訪ねた詳細が書かれていた。坂下から片門へ戻り、束松峠を越え越後へでは、「雪甚だ深く行歩甚だ難し」とあり、雪を知らない松陰のこの時期の峠越えがいかに難しかったことか。会津訪問は、兵学の山鹿素行(会津出身)に関心も持ったことや北辺の警備状況の視察が目的だったようだが、何よりも実地に各地の名士を訪ねて話を聞き、得た知識、識見はどんなにか大きかったことだろう。
本の終わり「会津と長州の接点を知る」の項には、・日新館と明倫館 ・吉田松陰と山鹿素行 ・山川健次郎と奥平謙輔 ・「泰西王侯騎馬図」と前原一誠など、会津と長州の深い関わり、歴史の一端が書かれていて感懐にふけった。また、・旅の終わり にはこれからの長州人との関わりを考える心を読み取ることが出来た。
会津と長州は、過去の不幸な歴史を乗り越えて、もっと相互に理解し合うことが必要だ。大学生のころ、長州出身の同級生には近づかなかった。戊辰戦争の悲劇の歴史、会津を攻めた薩長土肥の仕打ち、「勝てば官軍」の意識などへのわだかまりがあったと思う。今思えば、馬鹿らしい話だが、150年の時の流れをしても、会津の人たちの被害者意識はなかなか消えないことも事実だ。
来年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」がクランクインした。
過去にとらわれ過ぎることはないが、これを機会に、郷土会津の長い歴史や先人、自然の育んだ会津の精神を見つめなおしてみたいと思っている。
孫たちを見ながら、新しい時代の会津の心が育たなければならないと思う。
会津魂、会津の誇り、マッチャンさんのブログを通じて
その思索の中に読みとらせていただくことはあります。
会津と長州、大きな強いわだかまりが昭和の時代はもちろん、150年を経ても存在しているのですね。
「新しい時代の会津の心」をと、マッチャンさんが抱いた思いが伝わって欲しいです。
これからの日本は共に手を携えて!「八重の桜」が何かを動かしてくれたら…。
私の願い、ってところです(笑)会津人も長州人も素晴らしい人を存じております~。
明治以降、政治家は長州閥続きでしょうか。
でも、出身に関わりなく、幸せを追求する気概のある政治家が欲しい昨今ですが・・・。
「風土と人間性」 これは間違いなく相関関係があります。いま、人間らしい人間を育てる風土が必要ではないでしょうか。
運、不運は短い人生につきものです。八重さんがどのように描かれるのか、興味津々です。