若松から49号を坂下方面へ、見はるかす神指ガ原に土塁が見える。
神指城址の案内板には
「慶長5年(1600年)120万石を領するときの会津藩主上杉景勝は、石田三成等と力を合わせて家康を討とうとしたが、鶴が城は山に近く守備に不利と見て 神指ガ原に大規模な城郭を築くことを計画 家老直江兼続の指揮の下12何人の人夫を動員し昼夜休みなく工事を急がせた。しかし関ヶ原は家康の勝利に終わったため、工事を途中で中止した。その後廃城となり今日に至っている。」とある。
関ヶ原の戦いで東軍(家康側)が勝利すると城も完成せずに、上杉家は米沢へ30万 に減封され会津を去った。
城跡には慶山村(現東山町)から運ばれた本丸石垣の基礎石が保存され、築城前から存在していた 樹齢700年のケヤキの巨木は、黙って歴史を見つめてきた。この「高瀬の大木(ケヤキ)」は国の天然記念物に指定され、案内板によると根元の周囲12.5㍍見通りの幹囲10.5㍍樹高24.6㍍ とあり、実に風格があって見事だ。
北に磐梯が聳えるすがすがしい城跡で、久々に寒風に吹かれた。土塁の土手には、ほどなく咲きそうなスイセンのつぼみが沢山でていた。土塁周囲の桜の咲く頃にまた来てみたいと思った。 (2007.2.24)
神指城址の案内板には
「慶長5年(1600年)120万石を領するときの会津藩主上杉景勝は、石田三成等と力を合わせて家康を討とうとしたが、鶴が城は山に近く守備に不利と見て 神指ガ原に大規模な城郭を築くことを計画 家老直江兼続の指揮の下12何人の人夫を動員し昼夜休みなく工事を急がせた。しかし関ヶ原は家康の勝利に終わったため、工事を途中で中止した。その後廃城となり今日に至っている。」とある。
関ヶ原の戦いで東軍(家康側)が勝利すると城も完成せずに、上杉家は米沢へ30万 に減封され会津を去った。
城跡には慶山村(現東山町)から運ばれた本丸石垣の基礎石が保存され、築城前から存在していた 樹齢700年のケヤキの巨木は、黙って歴史を見つめてきた。この「高瀬の大木(ケヤキ)」は国の天然記念物に指定され、案内板によると根元の周囲12.5㍍見通りの幹囲10.5㍍樹高24.6㍍ とあり、実に風格があって見事だ。
北に磐梯が聳えるすがすがしい城跡で、久々に寒風に吹かれた。土塁の土手には、ほどなく咲きそうなスイセンのつぼみが沢山でていた。土塁周囲の桜の咲く頃にまた来てみたいと思った。 (2007.2.24)
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