都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
羽根突きは、時期は判然としませんが、中国から伝えられたもののようです。我が国での最も古い記録は、『看聞御記』永享4年(1432年)に記されたものです。
「こきの子(羽根突きの別称)勝負」と表現されたこの催しは、殿上人や宮中の女官たちが男女に別れて対戦、負けた方が酒を振舞うというもので、正月5日に行われました。
また、文安元年(1444年)に編まれた国語辞典の『下学集』は、羽子板の読み方を「ハゴイタ・コギイタ」と紹介し、さらに羽子板の説明として「正月之を用いる」と記しています。このように、羽根突きは正月の行事として位置づけられていたようです。
羽根突き(はねつき)は、1300年の歴史を持つ、日本の正月によく行われる伝統的な遊戯のひとつであり、2人が無患子(ムクロジ)の種子に羽を付けたものを羽子板で打ち合う、女子の遊戯や縁起行為で、元は神事とされる。
本来の意味は、女児が健やかに育つようにという願いを込めて行われる神事であり、古くは奈良時代から続く、公家の間で行われた神事や遊戯であり、元は毬杖(ぎちょう)と言った。(ちなみに男子には破魔矢・破魔弓が送られ神事としては様々な弓矢の神事がそれにあたる。)
また羽子板を飾る時期が、主に正月から小正月の1月15日まで飾られることから、この時季に行われることが多い。
毬杖が時代とともに変化し、杖が羽子板に変化し、毬が羽に変わったと言われる。一説には毬が羽に変化したのは、紐や羽のついた分銅を蹴る武術や舞や遊びが中国から伝わり、日本の毬杖と渾然一体となり現在の羽根突きになったとも言われる。(羽子板は日本独自のものである)
奈良時代に、男子の神事として蹴鞠(けまり)が存在したのに対し、女子には毬杖が行われていた。(毬杖とは、箆のような杖で毬を打ち合う遊びであり、神事であった。)
室町時代には、杖(「毬杖」というが、毬杖の神事と紛らわしいので「杖」とする)は羽子板に 変化し、毬は無患子(むくろじ)の木の実に羽をつけた物に変化した。現在の羽根突きとほとんど変わらぬ様式となり、公家の間で「こぎの子勝負」といった羽根突き大会が行われ、男女対抗戦であり、負けた方が、酒を振舞ったとさ
れる。この無患子は「子が患(わずら)わ無い」と表記するので女児への無病息災の願いが込められている。
戦国時代には祭礼の要素が強くなり、羽根突きよりも羽子板に祓いや縁起としての装飾が施され、縁起物の装飾品としての色合いを帯びていった。この頃には羽根を蜻蛉(とんぼ)に見立て、蚊に刺されないようにとの願いが込められていたことが文献に記述されている。当時の疫病は蚊を媒介として広まることが多く蚊除けは大事な事であった。
江戸時代には、武家が女児の誕生を祝って羽子板を贈答するようになった。またこれが庶民にも伝わり、女児のいる家庭に縁起物の歳暮として年の暮れに贈られるようになった。このことが正月に羽根突きが行われることの由来となっている。
したっけ。
元来は武家社会における料理であり、餅や野菜、乾燥食品などを一緒に煮込んだ野戦料理だったのでは無いかと考えられている。
雑煮は、元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれていた。室町時代に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「雑煮」という言葉が登場する。
正月に餅料理を食する慣習は古代より「歯固」の儀式と結びついた形で存在しており、それと関連して発生したと見られている。
お雑煮は1年の無病息災を祈って食べられるものです。本来は、もち・アワビ・いりこ・焼き 栗・山芋・里芋・大豆の7種類の材料を味噌で煮たものでした。しかし、『雑煮』を『何でも雑多に煮る』の意味と誤解されて全国に広まってしまったのです。その為、地域によってはまるで違う料理になってしまいました。
大まかに分類すると、東日本は角餅で味は醤油仕立て、西日本は丸餅で味は 味噌仕立てが多いようです。
甘いお雑煮
鳥取県…砂糖と塩の味付けで小豆の汁をかけます。
香川県…あんの入った丸餅を使用し、白味噌仕立てにします。大根や人参も入れます。
※昔は甘いものが貴重だった為、お正月だけでも甘いものを…、と始まったそうです。
お雑煮は野菜や肉など沢山の食材が入っているので、バランスの取れた献立です。
同じ地域でも家庭によって違いがあるのだと思います。
自分のうちの、お雑煮が一番ですよね。
我が家は、焼いた角餅に、澄まし汁をかけていただきます。
したっけ。
日本では旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いる。睦月という名前の由来には諸説ある。最も有力なのは、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとするものである。他に、「元つ月(もとつつき)」「萌月(もゆつき)」「生月(うむつき)」などの説がある。
睦月(むつき)
陰暦1月の異称。「むつびづき」「むつましづき」ともいい、語源的には、
新年を迎えて親疎ともども往来して仲睦(むつ)まじくするからだ(『奥義抄(おうぎしょう:平安後期の歌学書)』など)といい、
あるいは、1年の初めの月の意の「もとつ月」の転(『語意考(ごいこう:江戸中期の語学書』など)とし、
稲の実を初めて水に浸す月の意の「実月」(むつき)(『大言海だいげんかい:国語辞典』)とするなどの諸説がある。
[ 日本大百科全書(小学館) ]
したっけ。
書き初め(かきぞめ)とは、年が明けて初めて毛筆で書や絵をかく行事。通常は1月2日に行われる。吉書(きっしょ)、試筆(しひつ)、初硯(はつすずり)などともいう。
吉書は平安時代以来、公家(こうけ)・武家において、年始・改元など事が改まった機会に、吉日を選んで奏聞する儀礼文書のことであった。
もともとは宮中で行われていた儀式だったが、それが武家故実に取り入れられ、また江戸時代には寺子屋の盛行とともに民間行事にもなった。民間で受け入れるにあたっては、屋内作業の仕事始めのような感覚であったろう。若水で墨を摺り、恵方に向かって詩歌を書く習慣があった。
書く詩歌は「長生殿裏春秋富、不老門前日月遅(長生殿の裏には春秋富めり、不老門の前には日月遅し)」という漢詩がよく用いられた。
書き初めで書いたものは左義長(さぎちょう)で燃やし、その炎が高く上がると「手があがる」といって字が上達すると言われている。
左義長とは小正月に行われる火祭りの行事で、どんと焼きとも言われる。
かき‐ぞめ【書(き)初め】
新年になって、初めて毛筆で文字を書くこと。昔から1月2日に行われ、めでたい詩・歌・句などを書く。吉書初(きっしょはじ)め。筆始(ふではじ)め。試筆。《季 新年》
辞書:大辞泉
したっけ。
初詣(はつもうで)とは、年が明けてから初めて寺社(神社・寺院)や教会などに参拝し、一年の無事と平安を祈る行事である。初参り(はつまいり)ともいう。
元旦は年の最初の日「元日(1月1日)の朝」のことを言いますが、現在では元日そのものを表わす言葉として元旦が一般的に用いられています。
元日は正月の最初の日(第1日目)のことを言いますが、正月3日間のことを「元三日(がんさんにち=または、げんさんにち)=年の初めの3日間との意」といい、「旦」とは朝や明け方という意味で、「年が明けた3ヵ日の最初の日」ということを表しています。
年の初め・月の初め・日の初めであることから「三始(さんし)」とも言われます。一般的には正月三ヶ日間のいずれかに、1年間の厄払いと無病息災を願って、地域の神社に詣でることが多いようです。
喪中の場合は初詣を避け、4日以降または松の内以降か小正月以降に参拝するのが良いとされています。
元々は「年蘢り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に蘢る習慣であった。やがて年蘢りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。
江戸時代末期までは氏神またはその年の恵方の方角の社寺に詣でること(恵方詣り)が多かったのだが、明治以降では氏神や恵方とは関係なく有名な寺社への参詣が普通になっている。また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治時代中期のこととされている。明治時代初期までは恵方詣りの風習が残っていたようだ。しかし、京阪神において電鉄会社が沿線の神社仏閣をてんでんばらばらに「今年の恵方は○○だ」と宣伝し始めたために、本来の恵方ではない神社仏閣にも詣でるようになり、恵方の意味が薄れ、有名な神社仏閣にお参りするようになったといわれている。
関東においても、京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社が存在する。基本的に「年蘢り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣は明治以降広まった新しい風習であり、それも鉄道網の発展による賜物という。
歳徳神の在する方位(すなわち恵方)は、その年の十干によって下記のように決まる。
年の 十干 |
西暦 年の |
恵方 | ||||
正確に |
十二支 |
方位角 |
32方位 |
16方位 | ||
甲・己 |
4・9 |
甲の方 |
寅と卯 の中間 |
75° |
東微北 やや左 |
東北東 やや右 |
乙・庚 |
0・5 |
庚の方 |
申と酉 の中間 |
255° |
西微南 やや左 |
|