都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
二十四節気の一つ。陰暦正月のなかで、立春後15日、新暦では2月18、19日にあたる。また、この日から啓蟄までの期間をいう。雨水とは「気雪散じて水と為(な)る也(なり)」(『群書類従』※第19輯(しゅう)「暦林問答集・上」)といわれるように、雪が雨に変わり、氷が融(と)けて水になるという意味である。春の季語。
※『群書類従』江戸後期に編集された古文献で、1819年(文政2)530巻を刊行。
『暦便覧』※には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。それゆ えこの時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることも出来る。
春一番が吹き、鶯の鳴き声が聞こえ始める地域もある。
昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。
※ 『暦便覧』は天明七年(1787、寛政十年(1798)に再版)に出版された暦の解説書です(太玄斎著)。
2010年の雨水は2月19日です。
したっけ。
その1 小野篁(おののたかむら)の娘説。(生没年不詳)
時は平安朝初期、七里ヶ沢(現在の福島県阿武隈山系の中部、田村郡の南部に位置)といわれたこの一帯に、公家の血を引く小野篁(おののたかむら:802~852年平安前期の漢学者・歌人)が救民撫育のためにやって来ました。都の教養人であった、篁(たかむら)は、この地を「小野六郷」と称して治め、産業や文化の礎を築くのに懸命の日々を送っていました。ちょうどその頃、篁(たかむら)の荘園に仕える一 人の娘がいたのです。
愛子(めずらこ・珍敷御前)というその娘は息をのむほどに美しかったのです。篁(たかむら)と愛子はたがいに文を交し合う仲となり、そして結ばれました。間もなく玉のように愛らしい姫が生まれ、二人は姫を比古姫と名づけ、たいそう大事に育てました。やがて比古姫が六歳になったある春の日、篁(たかむら)は妻愛子をこの地に残し、姫を連れ都へ上がっていったのでした。
この比古姫こそ後の小野小町である。とするのが福島県小野町の説ですが、残念なことに比古姫が生まれ育ったことを示す記録は残されておりません。
しかし現在でも、田村郡小野町には、小野篁(おののたかむら)を祭神とする矢大神社が人々の尊崇を集めていることまた、夏の風物詩「たかむら踊り」が広く親しまれていること、さらには、京に上がる比古姫の美しさに魅せられ振り返ったという片葉葦が山里に残されていることなど、やはりこの町は小野氏に深い縁を持つ土地柄。そして『小野小町生誕の地』というロマンが生きる土地でもあるのです。
六歌仙・三十六歌仙にも数えられる才能あふれる歌人。その一方では、類希(たぐいまれ)なる美貌の持ち主として、数々の浮き名を流したと伝えられます。自分に思いを寄せる深草少将(ふかくさのしょうしょう)を、百晩通わせる説話はよく知られるところ。(後述)
このほか美男として名高い在原業平の求愛を、鉄火のごとくはねつけたとか、死して髑髏を野辺にさらした髑髏小町の逸話など多種多様な伝統をもち、彼女縁(ゆかり)の地も全国各地に点在しています。
小野小町とはどんな人物であったのかその本当のところは今もって歴史の謎とされています。しかし彼女が残した歌の世界に思いを馳せ、伝説の地を歩いてみれば、もしかしたら誰も知らなかった小野小町に出会えるかも知れません。
その2 小野篁(おののたかむら)の息子で出羽郡司・小野良真(おののよしざね)の娘説。
小野小町(825年~900年)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。
小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。
系図集『尊卑分脈』によれば小野篁(おののたかむら)の息子で出羽郡司・小野良真(おののよしざね)の娘とされ、生没年は825年~900年(天長2年- 昌泰3年)となっている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史記には全く見当たらない。また、小野篁の生没年802年~853年(延暦21年- 仁寿2年)を考えると篁の孫とするには年代が合わない。
血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。
さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇(もんとくてんのう:[827~858])や清和天皇(せいわてんのう:[850~880])の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。更衣とは寝所につかえる女官です。
また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の”町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
その3 小野氏の出であるが、父母も身分もつまびらかでない。
「九重の 花の都に 住みはせて はかなや我は 三重にかくるる」
小野小町は、809年、出羽の国・福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)に生まれた。(小野篁(おののたかむら:802~852年の娘説と年代が合わない。)
13才の頃、都へのぼり、都の風習や教養を身につけました。
平安時代を代表する六歌仙の一人で、絶世の美女だったといわれている。(六歌仙は他に、在原業平、僧正遍昭、大友黒主、喜撰法師、文屋康秀)
「花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに(小倉百人一首)」
しかし、故郷を恋しく思う気持ちは消えることなく、小町36才の時、宮中を退き、小野の里へと帰郷しました。庵(いおり)を造って静かに歌を読み暮らしていたところ、小町を想う深草少将は、小町に会いたさから郡代職を願い出て、都から小野の里へとやってきたのです。
数多くの男性から求婚されたが、なかでも熱心だったのが四位深草少将(ふかくさのしょうしょう)だったのです。
京都の山科には少将が小町のもとへ百夜通いしたという伝説も残っているそうです。
深草少将は、会いたい旨の恋文を小町へと送りましたが、小町はすぐに少将と会おうとせず、「わたしを心から慕ってくださるなら、高土手に毎日1株ずつ芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心に添いましょう」と、伝えたのです。
少将はこの返事をきいて野山から芍薬を堀り取らせ、植え続けました。1株ずつ植えては帰っていく毎日。実は小町は、この頃疱瘡(ほうそう)を患っていたのです。百夜のうちに疱瘡も治るだろうと、磯前(いそざき)神社の清水で顔を洗い、早く治るよう祈っていました。
深草少将は一日も欠かすことなく99本の芍薬を植え続けました。いよいよ百日目の夜。この日は秋雨が降り続いたあとで、川にかかった柴で編んだ橋はひどく濡れていました。
「今日でいよいよ百本」。小町と会える日がきたと喜び、従者がとめるのもきかず、少将は「百夜通いの誓いを果たす」と、通い慣れた道を百本目の芍薬をもって出かけました。
しかし、少将は橋ごと流され、不幸にも亡くなってしまったのです。小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、供養の地蔵菩薩を作り向野寺に安置し、芍薬には99首の歌を捧げました。少将の仮の宿だった長鮮寺には板碑を建て回向し、その後岩屋堂に住んだ小町は、世を避けながら自像を刻んで、92才で亡くなったといわれています。
平安時代当時は「40歳を過ぎたら長寿」として「四十賀」というお祝いをしていたこともあり、「分水嶺は40歳だった」と見てよさそうです。それからすると、92歳はとんでもない長寿だったといえます。
余談ですが、美人とは美少年のことだったそうです。当時、人という字は男性を指していたようです。女性の場合は美女といったそうです。
余談その2ですが、小野小町が生涯男性を受け入れなかったのは穴(膣)なし、つまり障害者だったという話があります。これはもてない男たちの中傷かもしれません。
ちなみに、裁縫で使う穴の開いていない針を待ち針と言いますが、これは「小町針」が語源だという説まであるそうです。
下記は小野小町に対する江戸川柳です
「気の知れぬ ものは小町の恋歌なり」
「歌でさえ 小町は穴のない女」
「そのわけを 知らず百夜も通えなり」
「馬鹿らしさ あかずの門へ九十九夜」
したっけ。
2009.12.06「化粧の起源と歴史」でクレオパトらについては触れましたが、今回クレオパトラ自身について考えてみましょう。
http://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/d/20091206
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、地球の表面は変わっていたに違いない。」
クレオパトラ(紀元前70年12月または紀元前69年1月-紀元前30年8月12日)といえば、カエサル(シーザー)、アントニウスというローマの二大英雄を手玉に取った古代の歴史ロマンのヒロインです。
日本の小野小町(おののこまち)、中国の楊貴妃(ようきひ)とならんで美人の代名詞にされている女性です。
パスカルは何のためらいもなく、彼女が鼻の高い絶世の美女だったという仮説で話を進めていますが、本当に彼女は本当に鼻の高い絶世の美女だったのでしょうか。
クレオパトラはマケドニア系なので、鼻はギリシャ型で高かったと思われますが、美貌の点ではごくありきたりの美しさで、世を絶するほどの美人ではなかったのだそうです。
プルタルコスは『英雄伝』で、
「クレオパトラの美貌もそれだけでは、いっこうに比較を絶するものではなく、見る人を驚かすほどのものではなかった。」
といっている。
クレオパトラ(ギリシャ語で「父の栄光」の意)は、エジプトのプトレマイオス王朝の最後の女王。この王朝はエジプト王朝だが、その先祖の一世はアレクサンドリアの武将で、歴戦の功によってエジプト、小アジアの各地を領有(せんゆう)した人物なので、もともとギリシャ系なのです。
そのうえ、エジプトの貴人の例にならって兄妹婚を続けたので、ギリシャ、マケドニアの血は完全に残っています。
歴代国王はプトレマイオス、女王はベレニス、アルシノエ、クレオパトラを名乗り、父プトレマイオスは十二世、クレオパトラは七世です。
クレオパトラが12歳のとき父が死ぬと、2歳下の弟プトレマイオス十三世と結婚しましたが、王を担いだ謀臣(ぼうしん)にくにをのっとられて追放されます。
そんなときに登場したのがカエサルでした。彼女はカエサルに近づこうとしましたが、非常な勢力を握っていた宦官(かんがん:東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男性)のポテイノスは側近ポンペイウスを殺し、クレオパトラを追い出し、密かにカエサルに陰謀を企てていたので近づけない。
そこで彼女は、旅行用ベッドに長々と横たわり、友人のアポルロドーロスが、そのベッドを革紐で縛り、戸口からカエサルのところに運び入れました。
クレオパトラ20歳のときでした。
思いがけないときに飛び込んできた、勇敢で智謀(ちぼう)にとんだ女王に、この英雄は首ったけになりました。こうしてこの歴史に名高いロマンスが始まります。
クレオパトラに対する古代人の評価はさまざまですが、その身持ちについては概して点が辛いものでした。
ティトォス・リヴィオスは、「相手かまわず浮気する腰軽女(こしがるおんな)」、プリニウスは「王冠をかぶった淫売女(いんばいおんな)」、プロペリチウスは「淫蕩(いんとう)な生活にすっかり染まった雌(めす)、乱脈なナイルのほとりにふさわしい女性」と決め付けています。
美貌の点からいっても、プルタルコスは、「クレオパトラを見て、美しさも若さもオクターウィアにまさる女ではない。」とアントニウスの妻のほうに軍配を上げています。しかし、その挙止動作、会話、声、それに才気では肩を並べるものはなく、二人の英雄の心を動かすのに十分だったのです。
アントニウスが死ぬと、彼と一緒に葬って欲しいという哀願の手紙をもたせて、彼女は見事に死んだのです。「先祖代々の御子孫にふさわしい」最期でした。時にクレオパトラ39歳。
結局、彼女の魅力はおそらくその容貌以外のものにあったのでしょう。
してみると、あえてパスカル説に意を唱えれば、「クレオパトラの鼻が少々低くてもべつに地球の表面はかわらなかった」のかもしれません。
したっけ。
ねえよ。
オレの青春に「バレンタインデー」なんて、ふやけたお祭行事はなかったんだよ。
だいたい、情けねえよ。若いもんが、そんなチョコレート屋の販促企画にのっかて、恋が成就するか。するわけねえだろ。貰ったって、本気なんだか、義理なんだか、ついでなんだかワカンねえっちゅうんだよ。
聖バレンチノは当時のローマに逆らって、若者を結婚させて、西暦270年2月14日に、処刑されてしまったんだぜ。
そんな日にキャーキャー言ってたら、聖バレンチノだって涙がちょちょぎれるってもんだぜ。もっと真面目にやんなきゃダメだっちゅうの。
そんな日に成就したなんてお笑いもんだぜ。よっぽど、勘違いいのオッチョコチョイだぜ。北海道便で言うなら「はんかくさいんでないかい。」ってとこだぜ。
したっけ。
バレンタイン・デーは、英語では「Saint Valentine’s Day」、訳せば「聖バレンタインの日」という意味です。つまり、バレンタインというのは、人の名前なのです。
西暦3世紀のローマでのことです。皇帝クラウディウス二世(在位268-270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていました。その理由は彼らが自分の家族や愛する者たちを去りたくないからだと確信し、クラウディウス二世は、結婚を禁止してしまったのです。
ところが、インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭であるバレンチノ(英語読みではバレンタイン)は、可哀想な兵士たちをみかねて、内緒で結婚式を挙げていました。それが皇帝の知るところとなったから大変です。 しかも、当時のローマでは、キリスト教が迫害されていました。
皇帝は、バレンチノに罪を認めさせてローマの宗教に改宗させようとしましたが、バレンチノはそれを拒否しました。そこで、投獄され、ついには西暦270年2月14日に、処刑されてしまったということです。(269年という説もあります)。
ローマではルペルクスという豊穣(ほうじょう)の神のためにルペルカーリアという祭が何百年ものあいだ行われていました。
毎年2月14日の夕方になると、未婚女性たちの名前が書かれた紙が入れ物に入れられ、祭が始まる翌15日には男性たちがその紙を引いて、あたった娘と祭の間、時には1年間も付き合いをするというものです。翌年になると、また同じようにくじ引きをします。
496年になって、若者たちの風紀の乱れを憂えた当時の教皇ゲラシウス一世は、ルペルカーリア祭を禁じました。代わりに、違った方法のくじ引きを始めたのです。それは、女性の代わりに聖人の名前を引かせ、1年間のあいだその聖人の人生にならった生き方をするように励ますものです。
そして、200年ほど前のちょうどこのお祭りの頃に殉教していた聖バレンチノを、新しい行事の守護聖人としたのです。次第に、この日に恋人たちが贈り物やカードを交換するようになっていきました。
バレンチノは、獄中でも恐れずに看守たちに引き続き神の愛を語りました。言い伝えによると、ある看守に目の不自由な娘がおり、バレンチノと親しくなりました。そして、バレンチノが彼女のために祈ると、奇跡的に目が見えるようになったのです。これがきっかけとなり、バレンチノは処刑されてしまうのですが、死ぬ前に「あなたのバレンチノより」と署名した手紙を彼女に残したそうです。
そのうち、若い男性が自分の好きな女性に、愛の気持ちをつづった手紙を2月14日に出すようになり、これが次第に広まって行きました。現存する最古のものは、1400年代初頭にロンドン塔に幽閉されていたフランスの詩人が妻に書いたもので、大英博物館に保存されています。
しばらくたつとカードがよく使われるようになり、現在では男女とも、お互いにバレンタイン・カードを出すようになりました。バレンチノがしたように「あなたのバレンタインより」(From Your Valentine)と書いたり、「わたしのバレンタインになって」(Be My Valentine)と書いたりすることもあります。現在アメリカでは、クリスマス・カードの次に多く交換されているそうです。
実は、欧米では、恋人や友達、家族などがお互いにカードや花束、お菓子などを贈ります。女性が男性にチョコレートを贈るのは、日本独自の習慣です。
では、チョコレートはどこから出てきたかというと、1958年に東京都内のデパートで開かれたバレンタイン・セールで、チョコレート業者が行ったキャンペーンが始まりだそうです。そして、今ではチョコレートといえばバレンタイン・デーの象徴のようになってしまいました。
バレンチノは自分の命を犠牲にしてまで神の愛を伝えたのです。今年のバレンタイン・デーは、そんな彼のことを思い出してください。そうすれば、義理チョコなどという馬鹿げた習慣はなくなると思います。
したっけ。
人類が誕生して間もない頃のことであった。奈良県の天理市あたり翁(おきな)と媼(おうな)がいた。契りを交わして三十年が過ぎても子供を授からずにいた。前世は人間ではなかったであろうが、きっと、悪行を重ねていたに違いない。だからこのような報いを受けるのだと、嘆き悲しんでした。
ただただ、毎日瓜をせっせと育てるばかりであった。
ある日、畑に行くと食べてしまうには惜しいほどの美しい瓜を見つけました。翁(おきな)は家に持って帰ると媼(おうな)に言いましたた。
「この玉のように美しい幼子がいたらどれだけうれしいだろうか」
「ほんにまぁ、食べるのが惜しいわい」
「同じことを考えておるわ」
ふたりはもいだ瓜を戸棚にしまっておくことにしました。
その晩、寝ていると戸棚から物音がしたのです。どうしたものかと、翁(おきな)が戸を開けると、なんともかわいらしい姫君がいました。
「ばあさん、これはいったい」
「瓜から生まれたんですよ。わたしたちが子供のように大事に瓜を育てたから、前世の悪行をお許し下さったのでしょう」
姫君は日が経てば経つほどに美しくなりました。姿顔立ちのみならず、人柄も文才も知恵もこの世にないほど優れていました。
噂を聞きつけた国の守護代は后にしたいと、手紙で申し立てました。翁(おきな)と媼(おうな)は大変喜び、支度をはじめました。
「いいかい、人さらいにあったら困ったことになる。扉は開けてはならないよ」
翁(おきな)と媼(おうな)はたっぷりと念を押して出かけました。
近所に住む世にも醜い女・天探女(あまのさぐめ)がいました。同じ貧しい家の者でありながら、美しい女だけが幸福になれるのは不公平に思ったのです。それに、あの女は瓜から生まれたというではないか。天探女は他人の、特に美しい女の、幸せは我慢ならなかったのです。
天探女(あまのさぐめ)が来て、「美しい花の枝を差し上げよう」と言うので、瓜姫は戸を開けました。天探女は瓜姫をつかまえて遠方の高い木の上に縛り付けたのです。そして瓜姫の着物を着て、自分が守護代の嫁になろうと企みました。
天探女(あまのさぐめ)は顔を隠して迎えの篭屋に乗りました。瓜姫を見つけないように、遠回りの道を教えたのですが、篭屋は間違った道を来ていたのです。上の方ですすり泣く声が聞こえてきました。篭屋が本物の瓜姫を見つけると、醜女の正体は天探女(あまのさぐめ)とばれたのです。
「こんな女と間違えるなんてひどすぎますわ」
もっともだと、迎えの者は瓜姫にわび、このことを守護代に秘密にしてもらうようお願いしました。迎えの者達は話しあい、天探女(あまのさぐめ)を始末することにしたのです。あまりの理不尽さに天探女(あまのさぐめ)は、女の武器を使って泣きながら「許してほしい」とすがりついて謝罪しましたが、男達の胸をうつにはほど遠かったのです。
男達は天探女(あまのさぐめ)を容赦なくずたずたに切り裂きました。この世に醜い女が存在してはいけないと言わんばかりに……。そして、栗(くり)と蕎麦(そば)と黍(きび)の根本に埋めたのです。
それ以来、その三種の植物は根が赤くなるのだということです。
あまのさぐめ 【天探女】
記紀神話の神。天稚彦(あめのわかひこ)の従神。高天原(たかまのはら)から遣わされた雉(きじ)を天稚彦に射殺させた。一説に、後世の天の邪鬼(じやく)に関係づけられる。
三省堂 大辞林
古代人たちは、芽生え、生育し、実り、死に絶え、その屍体の中から再び芽生えるという、大自然の死と再生の営みそのものに、偉大なる大地母神の姿を見た。地母神は、殺害され、切り刻まれ、大地に撒き散らされることによって、人間の食べられる作物を芽生えさせた
この作物起源神話は、水田農耕を知らない世界の「古栽培民」の間に広く分布している。そして同じモティーフは、確かに日本の神話の中にも見出すことができるのである。
日本書紀では、一書に曰はくとしてツクヨミ(月夜見:月の神)とウケモチ(保食神:食物の神)との話を載せ、殺されたウケモチの頭から牛馬、額からアワ、眉から蚕、眼からヒエ、腹からイネ、陰部からムギと豆が化生した。アマテラスは、アワ・ヒエ・ムギ・マメを「陸田種子(はたけつもの)」、イネを「水田種子(たなつもの)」と区別し、この世の人間の「食ひて活くべきものなり」として、五殻の起源を説明している。
蛇足ながら、瓜は女性器の隠語であります。これもまた、寝所の御伽噺なのです。
したっけ。
昔々、あるところに大層蛤(はまぐり)をとるのが上手な男がいました。
あるとき茂吉は海で巨大な蛤をとりました。
「こいつはでけぇ。きっと高く売れるぞ。」
しかし、良く見ると貝柱に傷がついているではありませんか。
「これは、可愛そうだ。ここまで生きるのは大変だったに違いない。よし、逃がしてやろう。」
しばらく後、男のもとに美しい女が現われ、嫁にもらってほしいと言ったのです。
「わたしはお浜ともうします。あなたに一目ぼれをしたので、お嫁にしていただきたいのです。」
お浜の料理は大層おいしく、とりわけ味噌汁が最高でありました。
茂吉はお浜に
「何があっても私の料理中は台所を覗かないで下さい。」
と言われていた。でも、茂吉はどうしても見たくて仕様がない。とうとう我慢しきれなくなって覗いてしまったのです。茂吉が見たのは鍋にまたがり小便をするお浜でした。
茂吉は怒って女を家から追い出してしまいました。女は海辺でいつまでも泣いていましたたが、やがて元の姿の蛤となって海へ帰って行ったのです。そして、二度と帰っては来ませんでした。
一時の感情により茂吉は掛け替えの無い女房を失い後悔しました
実はこの女房昔、茂吉に助けられた蛤だったのです。
その後、時折海底から浮かび上がり漁をする茂吉を見ては涙していたそうです。
子供向けのおとぎ話では料理の秘密の部分への配慮として、女が蛤となって鍋に身を浸していたと変更されている場合もあります。
類話として、御伽草子に収められている「蛤の草子」があります。
「見るな」のタブーは、各地の民話に見られるモチーフの一つである。何かをしている所を「見るな」とタブーが課せられたにもかかわらず、それを見てしまったために悲劇(多くは離別)が訪れるという話である。民話の類型としては禁室型(きんしつがた)とも言うそうです。
料理というものを例にとって、そこに込められた人の思い、気持ちを知ることの大切さ、それを説き明かしている話といえます。茂吉に恩を返すために訪れた蛤女房は、その美味もさることながら、その愛情いっぱいの料理を提供し、茂吉を感動させます。
しかし、茂吉はお浜との約束を破りました。
愛情の基礎である約束という信頼関係を裏切ったため、茂吉はお浜を失ってしまったというわけです。
貝が昔から女陰の隠語であることがわかれば、この話はいそうエロティックであることがわかる。蜆(しじみ)は幼児のそれ、蛤(はまぐり)は娘、赤貝(あかがい)は成熟した女のそれを言うのが、一般的である。
古事記
和銅5年(712年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)、太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書です。
古事記には、スサノヲがオホゲツヒメに食物を乞うたところ、女神は鼻・口・尻から種々のおいしい食べ物を取りだし、さまざまに料理し整えてさしあげた。これをのぞき見たスサノヲは、けがれた物を食べさせようとしたと怒って、女神を殺害してしまう。すると、殺された女神の頭から蚕が、二つの目から稲種が、二つの耳からアワが、鼻から小豆が、女陰から麦が、尻から大豆が化生したとある。
このことから、女性の体は食物を産む源であったことがわかる。
余談ですが、蜃気楼と見られる記述が初めて登場したのは、紀元前100年頃のインドの「大智度論」第六まで遡る。この書物の中に蜃気楼を示す「乾闥婆(けんだつば)城」という記述がある。また、中国では『史記』天官書の中に、蜃気楼の語源ともなる「蜃」あるいは「蛟(みずち:龍の古語)」が吐き出す吐息によって楼(高い建物)が形づくられる」という記述がある。中国では大蛤(おおはまぐり)を蜃(しん)と呼んでいました。
鳥山石燕(とりやませきえん (1712年-1788年) の「今昔百鬼拾遺(こんじゃくひゃっきじゅうい)」1780年(安永10年)に刊行された妖怪画集、その「雲の巻」に面白いお話がのっています。
史記の天官書にいはく、「海旁蜃気は楼台に象る」と云々。 蜃とは大蛤なり。海上に気をふきて、楼閣城市のかたちをなす。 これを蜃気楼と名づく。
又海市とも云。
つまり、歳経た大蛤が気を吐き、それが城郭を形作る。
よって「蛤の気の楼閣」から「蜃気楼」という言葉が生まれた、ということです。
したっけ。
National Foundation Day
建国記念の日(けんこくきねんのひ)とは、日本の国民の祝日の一つです。日付は2月11日。
国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用されました。
他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、建国記念の日は「政令で定める日」と定めている。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」としたのです。
2月11日という日付は、明治時代の初期に定められ1948年(昭和23年)に廃止された紀元節と同じである。紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔:かのととり-どし-はるしょうがつ-かのえたつ-さく)に由来します。日付は正月朔日、すなわち旧暦1月1日となるのです。
「古事記」や「日本書紀」(記紀)に書かれた建国伝承の概略は「すべての人々が安らいで豊かに暮らせるよう、大和に都をつくろうではないか。」そう思い立った神倭伊波礼比古命(神武天皇・かむやまといわれびこのみこと)の一行は日向(宮崎県・ひゅうが)を船出し、日向灘から瀬戸内海を東へ向かう。難波(なにわ)から大和に入ろうとするが果たせない。今度は紀の国(和歌山県)の熊野に上陸し、辛苦を重ねながら八咫鳥(やたがらす)に導かれ、ついに大和を平定したというものです。
干支紀年法は後漢に三統暦の超辰法を廃止して以降は木星と関係なく60 の周期で単純に繰り返すようになりました。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」です。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定されたのです。
その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ません。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられないのです。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられます。また、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日は天文上の朔に当たりますが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられています。
しかし、「紀元節」を「建国記念の日」とするのは、天皇制を復活させ、民主主義の原則に反するものだとして、各地で抗議の声もあがりました。結局、賛否両論の中、「国民の祝日法」が改正され、「敬老の日」「体育の日」とともに「建国記念の日」が新しい祝日として誕生しました。
当日は、建国記念日を祝う式典・集会が各地で行われ、これに反対する集会も各地で行われる。また、各地の神社仏閣では「建国祭」などの祭りが執り行われます。
結局、「建国の日」は神話に基づいて決定されたもので、定かではないということです。アメリカのように建国の日(独立記念日)がハッキリしていれば良いのですが、何せ島国で外敵からの侵略もなく、内輪もめの繰り返しで出来上がった国なので、当然ですが・・・。
国があるのに建国の日がないのもおかしいというので出来た日くらいに考えて、あまり大騒ぎすることもないと思います。
したっけ。
そんなこと知らんべさ・・・! テレビ的には女性の報道ばっかり目立ってるけど、冬のスポーツはフィギュアスケートだけではないちゅうんだよ。あんな点数で優劣決めるまんてもんはスポーツでないべさ。主観で優劣決めるのは芸術だべさ。客観的にスピードを競ってこそスポーツなんでないかい。 北海道の人間としては、スピードスケートの男性陣に頑張って欲しい。十勝からは何人も出てるから、なまら頑張って欲しい。 オレは予想屋でも占い師でもないから、どっちが・・・って言われても困るべさ。 だから、どっちがメダル・・・、ではなく、十勝の男性選手に頑張って欲しい。 デコ記事にしようと思ったらスピードスケートがないなんて、信じられねえ。 したっけ。
「かまくら」について考える
かまくらとは秋田県、新潟県など日本の降雪地に伝わる小正月の伝統行事。 雪で作った「家」(雪洞)の中に祭壇を設け、水神を祀る。
一般には、伝統行事で作られるものに限らず、雪洞自体が「かまくら」と呼ばれる。また、新潟県の魚沼地方では、同様の雪洞や行事のことを「ほんやら洞」という。
かまくらの語源は、形が竃(かまど)に似ているから「竃蔵」であるとする説や、神の御座所「神座(かみくら)」が転じたものであるとする説などがある。
「六郷のカマクラ行事」
小正月の行事の中でも700年の伝統を持つ、秋田県美郷町六郷で行われる「六郷のカマクラ行事」は、小正月行事本来の姿が保たれているとして重要無形民俗文化財に指定されている。
六郷のカマクラ行事は、月遅れの正月、2月11日から15日にわたって行われます。
豊作、安全繁栄を祈る「年ごい」と凶作や不幸を除去する「悪魔払い」、そしてその年の吉凶を占う「年占い」の三者が一体となった行事です。
観光化の進む東北地方のカマクラの中でも、最も小正月行事本来の姿を保ち、住民の伝承欲も高いことから国の重要無形民族文化財として指定されています。
この行事は「左義長」の吉書焼きの遺風をうつしたもので、鎌倉初期、二階堂氏が六郷の地頭となり、鎌倉幕府の「吉書初め」の行事をもたらしたものといわれ、豊作祈願の火祭として続いてきました。
2月15日をピークとする行事で、11日の蔵開きと天筆書初め、12日の小正月市と天筆掲揚、鳥追い小屋造り、15日の餅つき、小正月の年とり、「天筆焼き」、「竹うち」、そして、「鳥追い」この一連行事を六郷のカマクラといい、この形が町に定着したのは江戸初期のころといわれています。
天筆
天筆のこしらえ方は、半紙を横に三つに断ち、それを長く継ぎ合わせ、長さは各自の好みにもよりますが、3メートルから5メートルです。
白紙ばかりではなく、緑、黄色、赤、白、青の順に色紙を継ぎ合わせて作るのもあります。
また、男の子が二人いれば2本、三人いれば3本と男の子の数だけ作り、女の子は立てない習わしでしたが、今は、女の子の分も作ります。
そしてこの天筆に書く文句はいろいろ例があります。次にその例をあげます。
「奉納鎌倉大明神 天筆和合楽 地福円満楽 々々 新玉の年の始めに筆とりて万の宝かくぞあつむる 何年正月吉日 氏名 年齢 敬白」
初めには必ず天筆和合楽と書き最後には前記の和歌一首を書きます。
長いものになると、五穀豊穣楽、天下太平楽、家内安全楽といったようなものもあります。
昔の寺子屋時代には習字の手本に天筆手本というのがあって、それを習わせたものだとのことですが、今は、いろいろと変化し、最近では交通安全楽というものまであります。
この天筆は、吉書、書初めであり、子どもたちが自分のものは自分で書き、自分で書けない幼年者のものは父兄が代筆し、15日の夜カマクラに持っていきます。
12日は市が開かれ、15日の小正月年越しの準備の日で、露天市では15日に神仏に供えるメメンコ(ねこやなぎ)を買う風景も見られます。また、この日から、天筆を長い青竹の先につけて戸外に立てますが、全町の数千本の天筆が寒風になびくさまはまことに壮観です。
鳥追い行事
「正月どごまできた クルクル山のかげまで 何おみやげもってきた
松とゆずり葉とデンデン串柿もってきた あしたの晩かまくらだ 大根と牛蒡ど煮ておけ」
13日のあたりから、とり小屋と称する鳥追い小屋作りが始まります。
その中に「鎌倉大明神」がまつられ、子どもたちは互いに鳥小屋を訪問し合い、鳥追い唄を歌って過ごします。
鳥追い小屋と呼ばれる雪室は、雪を40センチくらいの厚さに四角に積み上げて、天井に茅を編んで作った筵(むしろ)を載せて作ります。
15日になると小正月の餅つきが始まります。
柳まゆ玉を作って神棚を飾るのが見事です。
まゆ玉は餅花、団子花ともいい柳の小枝にまゆ玉の餅を付けて作りますが、これは稲穂をかたどったもので、神棚や米俵の上に立てて豊作を祈願します。
秋田県美郷町六郷観光情報HPより
したっけ。