都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
雪の降り積もったあと、雪を投げ合う遊び。敵味方に分かれて雪の玉をぶっつけ合うだけであるが、玉つくりをする者と投げて戦う者など受け持ちを分けたり、雪の玉を固めやすくするために一晩凍らせておいて使うなどのくふうもされている。
鎌倉時代末ごろにすでにみられる遊びで、江戸時代以降には、「雪打ち」「雪ぶち」「雪つぶて」などといって、俳諧(はいかい)などに盛んに詠まれ、降雪後の代表的景物となった。
雪国の子供達を中心に遊びとして行われることが多い。
雪を握り固めて雪玉を作るには、雪に適度の水分が含まれている必要がある。北海道のように雪が含む水分が少ない地域では、握り締めても適当な雪球を作ることが困難なため、適度に水分を含ませる必要がある。
※一晩凍らせておいて使うという記述がありますが、これは実際に「雪合戦」をしたことのない人の考えだと思います。凍らせた雪玉(氷塊)は石のようで非常に危険です。
私たちの子供の頃はルールーとして禁止事項でした。
※「水分を含ませる必要がある」、これも、バケツに水を入れておくと凍るので不可能です。日中でも氷点下なのです。
それでも、私たち北海道十勝の子供たちは「雪合戦」をして遊びました。「雪合戦」は、春先の遊びなのです。日差しが温かくなり、雪に湿り気が生じます。雪玉を作るのに最適です。これも、固く結ぶのは禁止でした。氷同様危険だからです。
空き地にZ型の壁を作り、この壁を挟んで対戦します。この頃の雪は固まっているので、ブロック状に積み上げて壁を作ります。幼い子はたいていの場合大将です。ですから、じっと隠れています。この子に雪玉を当てられたら負けです。こうして年上の子が幼い子を参加させて、みんなで遊んでいたのです。
したっけ。
はり‐くよう【針供養】
2月8日(関西では12月8日)に、日常の針仕事で折れた針を供養する行事。この日は針仕事を休み、針をコンニャクや豆腐に刺したり、神社に納めたり、川に流したりする。《季春》「糸竹のいとまのお針―/風生」
参照:辞書:大辞泉
縫針に感謝し、裁縫の上達や怪我のないように願う行事です。全国に分布し、2月8日(関西 では12月8日)に行われています。この日は針の使用を避け、古針や折れ針を豆腐や蒟蒻・大根などにさして川へ流したり、神社や寺、とくに各地の淡嶋神社へ持参して供養したりしてもらうというのが一般的です。個人でやる他に、着飾った針子が師匠の家へ集まって行ったり、最近では女子の学校の行事ともなったりしています。
婦人に因縁の深い和歌山市加太の淡嶋神社の淡嶋願人の宣伝によって広まったとされているが起源は定かでないようです。しかし、身につけて愛用した道具類に一種の霊を認める心意をもとにして発生した日本人の感性が生んだ行事だと思われます。とにかく、日本海側には八 日吹きといってこの日は荒れるという所や、北陸地方のように針千本という魚が浜に吹き寄せられるという所があり、針供養の行事は、それらをはじめ事八日の伝承全体の中で考えなければならないと言えるでしょう。
事八日(ことようか)
2月8日と12月8日のこと。ヨウカゼック・ヨウカマチなどともいわれています。両日を特別の日とするのは東日本で、西日本では12月8日だけの所が多いようです。コトは行事とか祭事・斎事を意味することばとされ、それを1年間の行事と解して2月をコトハジメ、12月をコトオサメというが、逆にいう所もあり、この場合のコトは正月の神祭りを意味するかと考えられています。
行事・伝承の特徴は、関東地方とその周辺では一つ目小僧、ミカエリ婆さんなどの、北関東から東北地方では疫病神・笹神などの妖怪や厄神の来訪を説き、これらから身を守るために家人は外出を控え、さらに防禦の手段と考えて庭先や門口に目籠を掲げたり、柊(ひいらぎ)、唐がらし、ニンニクなどを門口に挿したり燃やしたりすることです。このような妖怪の到来伝承は、かつての祭事の物忌が厳重だったがゆえに生じたものと解されています。これらとは別に針供養も行われていますが、針供養は西日本にも広く分布しています。
したっけ。
寝耳に水とは、寝ているときに耳に水が流れ込んできて驚くということではありません。もっと恐ろしいことなのです。
日本の河川は、世界標準からすれば、一級河川クラスの川でも。相当な急流といえます。国土が狭く、山と川が迫っているため、場所のよっては滝のような勢いで水が流れています。
そのぶん、日本は昔から、水害の絶えることのない国であり、治山治水は人々の悲願だったのです。そういう地理的な背景を踏まえておくと、この言葉も理解しやすくなります。
昔は「寝耳に水が入る」といったそうです。しかし、入ってくるのは水そのものではありません。轟音です。水が流れる濁流の音です。出水、洪水、鉄砲水などの音が、耳に飛び込んでくることなのです。「寝耳に水が入る」は「寝耳に水音が入る」が正しいのです。
水害は、今とは比べ物にならないほど恐れられていた時代、出水の音を聞くことは、それは恐ろしいことだったのです。人々は、驚いて、布団を跳ね除けたことでしょう。
したっけ。
「枕流漱石(ちんりゅうそうせき)」という言葉があります。これは、屁理屈を並べ負け惜しみの強いことのたとえです。
その昔、中国の南北朝時代(晋の時代)西暦270年頃に孫楚(そんそ)という知識を誇り、負けず嫌いで、絶対にまちがっていたと認めたことのない男がいました。孫楚は、なかなか出世ができなかったので、王済(おうせい)という老人のところへ行って、愚痴をこぼしました。
漢文に「沈石漱流(ちんせきそうりゅう)」という熟語があり、「石を枕にして、川の流れで(口を)漱ぎたい(枕石漱流、そのような自然の中での暮らしの意味)」と言おうとしたところ、うっかり「石で漱ぎ、流れを枕にしたい(漱石枕流)」と言い間違えてしまった。
すかさず王済に「流れを枕にできるか、石で口を漱げるか」と突っ込まれると、孫楚は「枕を流れにしたいというのは、汚れた俗事から耳を洗いたいからで、石で漱ぐというのは、汚れた歯を磨こうと思ったからだよ」と言い訳し、王済はこの切り返しを見事と思った。
以後、「さすがに孫楚だ」というわけで、矛盾をとりつくろうさまを「流石」というようになったとされていますが、本当のところははっきりしていないようです。
評判や期待などに応えてくれることを褒めるときには、「さすがに~~だ」という形で“実力にふさわしい”というように用いますし、そういう予想を認めながらもそうはいかないと矛盾している様子を「さすがの~~でも」というような形で、“評価通りの実力を発揮できなかった”時にも用いられます。
しか‐す‐がに【▽然すがに】
[副]《副詞「しか」+サ変動詞「す」+接続助詞「がに」からという》そうはいうものの。そうではあるが
「さすがに」の“さ”は「さも有りなむ」というように使用された、指示副詞“然(さ)”、“す”はサ変動詞の“為(す)”の終止形、“がに”は助詞だそうです。
辞書: 大辞泉
この言葉は、上代の「しかすがに」という言葉に代わって、中古、つまり平安時代以降、用いられるようになった副詞の「さすがに」の語尾を落としたものが「さすが」です。
「さすが」に「流石」の文字が当てられるようになって来たのは、中世、つまりは鎌倉時代以降から一般化しました。それ以降も「石流」や「有繋」などいろいろな漢字に当てられていたようですが、明治以降はもっぱらこの「流石」が用いられて現在にいたっています。
もちろん明治大正期には、『伊勢物語』の真名本といわれる漢字書き本が「然爾(さすがに)」と書いていたのに倣(なら)って、“さすがに”については、そう書く人もいました。
中世以降の文化人の“粋な姿勢”が「さすが」を「流石」と当てさせたのは間違いなさそうです。
よく「流石」を何故「さすが」と読むのだという人がいますが、これは、この故事に倣って無理やり読ましているので、漢字に意味はありません。
また、日本の文豪、夏目金之助の号である漱石は、孫楚の故事に由来するのです。
「漱石」とは、変わり者、頑固者の意味になりますが、漱石のこのユーモア感覚は“さすが”というべきだと思います。
したっけ。
1961年4月12日、A-1ロケットによって打ち上げられた人工衛星ヴォストーク1号に乗って人類初の宇宙飛行を成し遂げたユーリ・アレクセイビッチ・ガガーリンは、手記の中でこういいました。
地球が青く見えたのは、地球をとりまく大気の粒子が太陽の光を反射したためなのです。
そして、空が青く見えるのも、これと同じ理由によるものなのです。
太陽の光をプリズムで分けてみると、虹のような七色になります。波長の短い青い光から波長の長い赤い光までの、それ らの光線は、大気中の粒子(酸素や窒素の分子、オゾンの分子、埃(ほこり)、煙、灰など)に衝突し分散します。
このとき、波長の短い光は、波長に長い光よりも散乱の角度が大きいという性質を持っています。
わかりやすくいえば、波長の長い赤、橙(だいだい)、黄色などの光は吸収されてしまうのに対して、波長の短い青や緑の光は散乱してしまうのです。
波長の短い光のうち、青がいちばん人間の目に届く率が高い色(短波長の中で最も波長が長いため)なのです。
そういうわけで、地上から見ると、晴天の日の昼間の空は青いのです。
太陽が真上辺りにある昼間は、光線が大気層を通る距離が短いことから、太陽自身は真っ白に見え、その周囲の部分からは青色が散乱されて入ってきます。
これが、前に説明したように、青く見える理由です。
一方、朝や夕方は、光線が大気層を通る距離が長いことになります。そのため、空が青味のやや減った光に照らされ、あまり散乱を受けなかった赤や黄色の光りが眼に入るわけです。そのため、太陽が赤く見えるのです。
虹は太陽光が水蒸気、水滴という プリズムを通ってできたスペクトル(可視光および紫外線・赤外線などを分光器で分解して波長の順に並べたもの。)なのです
したっけ。
閏年は4年に1度必ずめぐってくると思ってはいませんか。実はそう簡単ではないのです。
閏年は、一年365日ではなく、366日で4年に1回だと言う事は、みなさんご存知ですよね。
閏年の計算をすると、何故366日なのかわかります。
太陽の周りを地球が一周する日数が実は365日ではなく365.24190日なのです。
閏年は1年が365.242190日であることから、その誤差を修正するために生じます。1年で 0.2422日の誤差なので、4年で0.9688日の誤差ができるので、4年に1回だけ1年を閏年の366日にします。
うるう年を漢字で書くと「閏年」と書きます。
「閏」の漢字には、「あまり」とか「余分」という意味があり、「潤」の漢字は、余分な水分があり「うるおう」となるそうです。
そしてその「うるう」という読みは、「潤(うるおう)」と「閏(うるう)」を書き間違えたのだとか・・・。
そのことから「閏年」の「うるおう→うるう」ともじってつけられたそうなのです。
閏年のグレゴリウス暦での決め方
1.閏年とは西暦年が4で割り切れる年は閏年です。
2.閏年の例外は、上記1であっても西暦年が100で割り切れる場合は、閏年としない。
3.閏年の例外の例外は、上記2であっても西暦年が400で割り切れる場合は、閏年。
2000年がこの例外の例外に当たり、なんと400年に一度の修正だったのです。
つまり、下記の計算『その1の①②を満たすとき』、または『計算式その2の①②③を満たすとき』を閏年と言うのです。
計算式その1
①4で割り切れる
②100で割りきれない
①②を満たすとき=閏年
計算式その2
① 4で割り切れる
② 100で割りきれる
③ 400で割りきれる
①②③を満たすとき=閏年
では、2300年はどうでしょう。
①4で割り切れる=2300÷4=575
②100で割りきれる=2300÷100=23
④ 400で割りきれる≠2300÷400=5.75
計算式その1の①②、または計算式その2の①②③をともに満たしていませんので平年となります。
したっけ。
恵方巻きの歴史は江戸時代末期~明治時代の初期まで遡り、大阪・船場の商人による商売繁盛の祈願事として始まったといわれる。旧暦では節分が大晦日にあたり、当時は、前年の災いを払う厄落としの一種として、年越しに際し行われたらしいのです。
しかしこの習慣は明治時代に一旦廃れ、昭和50年代に復活する事となります。
恵方巻きが現在の形で復活したのは、1997年に大阪海苔問屋協同組合の若手でつくる「大阪海苔昭和会」が節分の日に道頓堀で実施した恵方巻きの早食いコンテストがきっかけで始まったのだそうです。
ですから、比較的新しい風習で、最近までは関西だけのものでしたが、スーパーやコンビニ、テレビの影響で瞬く間に全国に広がったといいます。
方位神の一つである「歳徳神(としとくじん)」はその一年の福徳をつかさどる神とされています。この歳徳神がいる方角は全てにおいて大吉とされ、この方角を「恵方(えほう)」と呼びます。恵方は別名「吉方(きっぽう)」「明の方(あきのかた)」等ともいわれます。
恵方はその年の暦の「十干」によって定まります。その年の暦と恵方との対応は以下の通り、5年周期・4方位になります。
○甲・己の年:寅と卯の間(「甲」の方…およそ東北東)
○乙・庚の年:申と酉の間(「庚」の方…およそ西南西)
○丙・辛の年:巳と午の間(「丙」の方…およそ南南東)
○丁・壬の年:亥と子の間(「壬」の方…およそ北北西)
○戊・癸の年:巳と午の間(「丙」の方…およそ南南東)
今年は庚寅年ですから、「庚」の方角、およそ西南西になります。
したっけ。
りっ‐しゅん【立春】
二十四節気の一。節分の翌日。2月4日ごろ。暦の上で春がはじまる日。《季 春》「―の米こぼれをり葛西橋/波郷」
立春に禅寺やその檀家の門の左右にはる紙札の文句。また、その紙札。《季春》
辞書:大辞泉
立春は、冬至と春分の間の2月4日頃に当たります。また、この日から雨水(2月19日頃)までの期間を立春と呼ぶこともあります。立春は冬と春の分かれる節目の日である「節分」の翌日で「寒さがあけて春に入る日」いわば春の初日です。
旧暦では一年のはじまりは立春からと考えられていたため、立春を基準に様々な決まりや節目の日が存在しています。
春とは立春から立夏の前日(節分)までを言います。冬至と春分の中間にあたります。この頃、暖かい地方では梅の花が咲き始めます。
古来は、自然の景色の変化から季節の移り変りを把握する「自然暦」を使用していました。飛鳥時代に中国から二十四節気が伝えられると、冬至が年の分割の起点と考えるようになり、立春を一年の初めとして暦が作成されるようになりました。
明治時代に改暦が行われるまでは、立春は正月とほぼ同じ頃に重なっていたため、現代でも正月に「早春」「迎春」や「新春」といいます。
因みに2010年2月4日は、旧暦平成21年12月21日です。
立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。この文字は、縦書きすると左右対称になり一年間災難にあわないというおまじないです。
立春の前日は節分である。立春から数えて88日目を八十八夜、210日目を二百十日、220日目を二百二十日と呼ぶ。
また、立春以降に初めて吹く南よりの強風を春一番(はるいちばん)と呼びます。
したっけ。