べったら市は東京都中央区大伝馬町の宝田恵比寿神社の付近で毎年10月19日20日に開催される市の通称である。この祭りは江戸時代には恵比寿講の前日に立つ市で腐れ市と呼ばれていて、日本橋の魚河岸の魚(恵比寿神の鯛- 今のように養殖のない時代なので、古い鯛もあったかもしれない 腐っても鯛?)が売られていて、浅漬大根(べったら)も売られていた。また、江戸時代の資料にはべったら市と言う名は幕末まで出てこない。
明治に入ると暦の改変によって旧暦10月20日(おおよそ今の11月20日ごろ)から新暦の10月20日になった。明治9年10月20日の読売新聞によると新暦で市が立っている。
大伝馬町は江戸時代には物流の中心地で主として繊維問屋(木綿)が多かった。商人の祭りの恵比寿講が盛んになった。
薬種問屋は本町および伝馬町に最も多く、伊勢町がこれに続く。これら薬種問屋の中で,享和(1801から1804)以後、砂糖の輸入製造に伴い、砂糖を売るものがあった。江戸はもともと砂糖商なく、みな薬種問屋に販売せしめるもの、守貞漫稿「大伝馬町の大坂屋勘兵衛,堺屋久左衛門、二人薬を捨て糖一種を売る。これぞ糖店の祖とす。今は(砂糖)問屋30余、然れども薬問屋として陽にす。」とあり、当時、砂糖商では営業の許可が認められず、薬種問屋の名を用いて,50戸の中の30戸が砂糖商だった。ただし、これは江戸中期以後のことです。大伝馬町の隣の本町は江戸における薬種問屋の集積地で、砂糖は薬種問屋の扱いで、享保7年に本町に砂糖の薬種問屋は25軒,大伝馬町には19軒砂糖を扱う薬種問屋があった。(近代日本糖業史上巻)、明治維新の混乱で日本の砂糖は外国(特にイギリス)にたちゆかなかった。大阪においては国産の砂糖(徳島産)が強かったが、横浜では次第に安い砂糖に切り替わった。安い砂糖を使って麹だけで甘味を出していた江戸時代の浅漬大根(べったら)から砂糖の甘味を加えた明治のべったらに切り替わった。大根は11月になれば自然の甘味がでるが明治時代の10月では難しいと思われる。
明治19年 コレラが大流行した。この年の東京日日新聞10月21日の記事はくされ市を一ヶ月ほど遅らして開催した方が良いと考えていたらしい。当時、神田の祭りは9月15日に行われていたがコレラのせいで今の5月15日になった。また、京都の祇園祭りはコレラ騒動によって明治12年,19年は祭礼が7月から11月に変更され、明治20年は5月に、また明治28年は10月に祇園祭りが行われた。多人数を集める行事は禁止されていた。コレラ騒動は10月に開催するくされ市の商材を魚から次第に浅漬大根(べったら)に切り替わった。
コレラと日本橋魚河岸 魚河岸100年史より
明治時代の夏は東京の市民にとって「コレラ」の恐怖の季節となった。明治期の終わりの頃には俳句の季題にコレラが夏の歳時記となっていた。
明治の中期になると、東京の人口も100万人をはるかに越し、日本橋魚河岸も問屋,仲卸をあわせて800名を越すようになっていた。人口の増加は魚河岸の人、物を増やし混雑を際立たせてくることになる。数千人の買出し人は日本橋のたもとにある共同便所を使い汚物をたれながした。売場を洗った水も日本橋川に流した。日本橋川は悪臭を放っていて、コレラが流行りだすと、生魚を食べないように衛生当局から注意がでていて、食物はよく火を通して食べるように通達されていた。しかし、当時生で食べるのは魚だけであったから魚が嫌われた。魚というと魚河岸、魚河岸は悪臭を放つ不潔な所、東京の真中において置くのはけしからんとなり、コレラが流行るたび、魚河岸の移転の話が出てきた。
コレラの流行の年は文久3年(1863)、明治10年(死者517人)明治15年(死者5071人)明治19年が最大の流行で死者9829人も出た。このとき水道の設備が悪くて、伝染の媒体になった地区もあったので、上水道工事のするため東京府は玉川上水の上流,今の三多摩地区を、神奈川県から政府に働きかけて東京府に管轄を換えた。魚河岸は19年コレラの影響で不潔が指摘され、具体的に移転の話が出た。明治22年の内務省「市区改正条例」により、日本橋魚河岸の移転問題が議会でも大きく取り沙汰された。明治23年(コレラ死者3307人)明治28年(死者2597人)
このため、東京府の食品市場は警視庁の管轄になり、延び延びとなった魚河岸の移転は何かとあると警視庁から移転を迫られた。また、魚を扱う高級料理店の中には夏は休んだので影響はかなりあった。明治16年にコッホ氏によってコレラ菌が発見され、明治の終わり頃までに衛生対策がなされ、明治35年頃からコレラの予防注射が始まり今では忘れられた病気となった。
コレラによって変わったこと。上下水道の建設。水道菅が鉄製となる。検疫制度が始まり日本の主権となる。衛生という考えが広まった。
さらにサッカリンが明治19年に輸入されている。砂糖の甘さの200倍もしていた。当然、大伝馬町や本町の輸入薬の商社に入ったと思われる。
明治34年サッカリンは甘味料としての使用は禁止される。この後昭和16年に沢庵漬に使用許可がおり、戦後、物不足の時代に使用が解禁されるまで、警察の取締りの対象となり、しばしば新聞紙上を賑わしている。戦前は食品衛生の取締りの管轄は警察であった。
サッカリンの使用禁止は表向きは人体に有害であると言う理由だが、当時日本の領土になった台湾の精糖業保護するためであった。また昭和の始めの取締まりは砂糖消費税の税収を上げるためであった。
明治43年10月15日 読売新聞
浅漬556店,宮師310店、雑品商435店 べったら市の出店数
明治43年10月20日 読売新聞
東京一の人出の祭りとなった。明治38年路面電車が小伝馬町を通る。品川より浅草へ
べったら市は明治という時代に暦の改変、コレラ、砂糖、サッカリン、台湾の領土化による糖業の保護、日清、日露戦争の影響、路面電車の開通等によって、明治末期には東京一の祭りとなった。多くの資料は大正期以後に作られたため、べったら市は江戸時代からあったと書かれているが本当に賑わったのは明治中期以後と思う。一般の日本人が砂糖の甘味を安く味わえたのはこの市からかもしれない。
明治に入ると暦の改変によって旧暦10月20日(おおよそ今の11月20日ごろ)から新暦の10月20日になった。明治9年10月20日の読売新聞によると新暦で市が立っている。
大伝馬町は江戸時代には物流の中心地で主として繊維問屋(木綿)が多かった。商人の祭りの恵比寿講が盛んになった。
薬種問屋は本町および伝馬町に最も多く、伊勢町がこれに続く。これら薬種問屋の中で,享和(1801から1804)以後、砂糖の輸入製造に伴い、砂糖を売るものがあった。江戸はもともと砂糖商なく、みな薬種問屋に販売せしめるもの、守貞漫稿「大伝馬町の大坂屋勘兵衛,堺屋久左衛門、二人薬を捨て糖一種を売る。これぞ糖店の祖とす。今は(砂糖)問屋30余、然れども薬問屋として陽にす。」とあり、当時、砂糖商では営業の許可が認められず、薬種問屋の名を用いて,50戸の中の30戸が砂糖商だった。ただし、これは江戸中期以後のことです。大伝馬町の隣の本町は江戸における薬種問屋の集積地で、砂糖は薬種問屋の扱いで、享保7年に本町に砂糖の薬種問屋は25軒,大伝馬町には19軒砂糖を扱う薬種問屋があった。(近代日本糖業史上巻)、明治維新の混乱で日本の砂糖は外国(特にイギリス)にたちゆかなかった。大阪においては国産の砂糖(徳島産)が強かったが、横浜では次第に安い砂糖に切り替わった。安い砂糖を使って麹だけで甘味を出していた江戸時代の浅漬大根(べったら)から砂糖の甘味を加えた明治のべったらに切り替わった。大根は11月になれば自然の甘味がでるが明治時代の10月では難しいと思われる。
明治19年 コレラが大流行した。この年の東京日日新聞10月21日の記事はくされ市を一ヶ月ほど遅らして開催した方が良いと考えていたらしい。当時、神田の祭りは9月15日に行われていたがコレラのせいで今の5月15日になった。また、京都の祇園祭りはコレラ騒動によって明治12年,19年は祭礼が7月から11月に変更され、明治20年は5月に、また明治28年は10月に祇園祭りが行われた。多人数を集める行事は禁止されていた。コレラ騒動は10月に開催するくされ市の商材を魚から次第に浅漬大根(べったら)に切り替わった。
コレラと日本橋魚河岸 魚河岸100年史より
明治時代の夏は東京の市民にとって「コレラ」の恐怖の季節となった。明治期の終わりの頃には俳句の季題にコレラが夏の歳時記となっていた。
明治の中期になると、東京の人口も100万人をはるかに越し、日本橋魚河岸も問屋,仲卸をあわせて800名を越すようになっていた。人口の増加は魚河岸の人、物を増やし混雑を際立たせてくることになる。数千人の買出し人は日本橋のたもとにある共同便所を使い汚物をたれながした。売場を洗った水も日本橋川に流した。日本橋川は悪臭を放っていて、コレラが流行りだすと、生魚を食べないように衛生当局から注意がでていて、食物はよく火を通して食べるように通達されていた。しかし、当時生で食べるのは魚だけであったから魚が嫌われた。魚というと魚河岸、魚河岸は悪臭を放つ不潔な所、東京の真中において置くのはけしからんとなり、コレラが流行るたび、魚河岸の移転の話が出てきた。
コレラの流行の年は文久3年(1863)、明治10年(死者517人)明治15年(死者5071人)明治19年が最大の流行で死者9829人も出た。このとき水道の設備が悪くて、伝染の媒体になった地区もあったので、上水道工事のするため東京府は玉川上水の上流,今の三多摩地区を、神奈川県から政府に働きかけて東京府に管轄を換えた。魚河岸は19年コレラの影響で不潔が指摘され、具体的に移転の話が出た。明治22年の内務省「市区改正条例」により、日本橋魚河岸の移転問題が議会でも大きく取り沙汰された。明治23年(コレラ死者3307人)明治28年(死者2597人)
このため、東京府の食品市場は警視庁の管轄になり、延び延びとなった魚河岸の移転は何かとあると警視庁から移転を迫られた。また、魚を扱う高級料理店の中には夏は休んだので影響はかなりあった。明治16年にコッホ氏によってコレラ菌が発見され、明治の終わり頃までに衛生対策がなされ、明治35年頃からコレラの予防注射が始まり今では忘れられた病気となった。
コレラによって変わったこと。上下水道の建設。水道菅が鉄製となる。検疫制度が始まり日本の主権となる。衛生という考えが広まった。
さらにサッカリンが明治19年に輸入されている。砂糖の甘さの200倍もしていた。当然、大伝馬町や本町の輸入薬の商社に入ったと思われる。
明治34年サッカリンは甘味料としての使用は禁止される。この後昭和16年に沢庵漬に使用許可がおり、戦後、物不足の時代に使用が解禁されるまで、警察の取締りの対象となり、しばしば新聞紙上を賑わしている。戦前は食品衛生の取締りの管轄は警察であった。
サッカリンの使用禁止は表向きは人体に有害であると言う理由だが、当時日本の領土になった台湾の精糖業保護するためであった。また昭和の始めの取締まりは砂糖消費税の税収を上げるためであった。
明治43年10月15日 読売新聞
浅漬556店,宮師310店、雑品商435店 べったら市の出店数
明治43年10月20日 読売新聞
東京一の人出の祭りとなった。明治38年路面電車が小伝馬町を通る。品川より浅草へ
べったら市は明治という時代に暦の改変、コレラ、砂糖、サッカリン、台湾の領土化による糖業の保護、日清、日露戦争の影響、路面電車の開通等によって、明治末期には東京一の祭りとなった。多くの資料は大正期以後に作られたため、べったら市は江戸時代からあったと書かれているが本当に賑わったのは明治中期以後と思う。一般の日本人が砂糖の甘味を安く味わえたのはこの市からかもしれない。