年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治37年 べったら市

2006年09月05日 | べったら市
明治37年10月20日毎日新聞
昨日のべったら市
昨日は幸い天気が立ち直り雨の懸念もなかったので各商人は早朝より出店の縄張りをし、人形町通、旅篭町には浅漬屋、大伝馬町・小伝馬町には宝物屋、鉄炮町その他は植木屋だった。数百の諸商人は昼頃から店を出し始めたが夜に入って雑踏を予想して日本橋署には伝馬町祖師堂に出張所を設け、非番の巡査総出で警戒し、また小伝馬町・大伝馬町通は電車の通行線路に当たるので、鉄道会社より数十名の監視人を出して警戒をしていたので夕方までは無事だったとさ。

明治37年10月20日日本新聞
昨日
朝より天気良く、十月小春の空近く、温暖は人に良い。また秋冷を覚えず、べったら市は例年より賑わいに時局と関係ない、人形町通り電車ゆっくりと行く間例のベッタラ大根の縄付きを傍若無人に振り回し、ハイカラをしている後に綺麗に着飾った者、恋は恋、快は快なり。横町筋は更に繁華にもかかわらず、菊を売る商人、客を呼ぶ声勇ましい。飾り付けの新大門通りは沙河会戦を表して軒先提灯の列・列。一層の景気を添えたり。この夜のべったら市は決して不景気を現していない。

沙河会戦とは日露戦争の沙河会戦のことか。
沙河会戦(明治37年10月2日より17日まで)
 日露戦争の遼陽会戦ののち退却したロシア軍は、ロシア本国からの大量の増援を受け、10月2日、ロシア軍は沙河において攻撃を開始した。これに対する日本軍はその対応に後れをとったが、やがて反撃に転じ、16日には日本軍が沙河左岸に進出して会戦を終えた。しかし、日本軍は兵力と弾薬の欠乏により、ロシア軍に徹底的な打撃を与えることはできず戦闘は暫く休止となる。本土には勝利と報道されていたのだろうか。
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