榎本 武揚 文部大臣辞任
第一次山縣有朋内閣が明治22年12月24日に発足したが翌年5月17日に文部大臣だった榎本武揚が辞任している。この辞任する二日前には彰義隊23回忌が行われている。
また榎本は足尾鉱毒事件のとき、農商務大臣の地位を現地視察後辞任して、再度公職に就くことなく余生をおくったという。
文部大臣を辞任したのは山縣有朋と衝突したのが原因といわれているが、江戸300年祭(明治22年)、彰義隊23回忌が無事に終わったこともその原因の一つかもしれない。武揚は、教育勅語を作れという山縣有朋の指示に従わず、更迭されます。
もし新富座で榎本が『皐月晴れ上野朝風』を観ていたら文部大臣在任中ではなかったことになります。(上演は5月22日から)
第一次山縣有朋内閣が明治22年12月24日に発足したが翌年5月17日に文部大臣だった榎本武揚が辞任している。この辞任する二日前には彰義隊23回忌が行われている。
また榎本は足尾鉱毒事件のとき、農商務大臣の地位を現地視察後辞任して、再度公職に就くことなく余生をおくったという。
文部大臣を辞任したのは山縣有朋と衝突したのが原因といわれているが、江戸300年祭(明治22年)、彰義隊23回忌が無事に終わったこともその原因の一つかもしれない。武揚は、教育勅語を作れという山縣有朋の指示に従わず、更迭されます。
もし新富座で榎本が『皐月晴れ上野朝風』を観ていたら文部大臣在任中ではなかったことになります。(上演は5月22日から)