年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

下町の人達の支援

2009年01月24日 | 福神漬
下町の人達の支援
彰義隊後日の話から
真説 彰義隊 加来耕三著
天野八郎の遺児たちや墓所を守る人達は下谷の人々によって維新後密かに保護されていた。1854年に開設した講武所(幕府の子弟の養成所)剣術教授方・北辰一刀流井上八郎は明治になって浜松奉行となって天野八郎の遺児たち生活の面倒をみていたという。196頁
 池之端の守田宝丹は上野の山の彰義隊の墓を守る人達を密かに支援していた。
 明治初期に朝敵となった彰義隊は堂々と語ることは出来ず、下谷の人々や子孫縁者の間で伝わっていった。
 明治20年代酒悦の福神漬缶詰は高価でゆっくりと拡大していった。そこには下谷の人達の支援があった。


缶詰価格
明治の当時の缶詰の価格は1缶が20から35銭で、白米1升が7.65銭であったことから、いかに高価な食品であったかが判る。(出典:日本缶詰協会創立80周年記念「缶詰業界の歩みと団体の活動」)
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