明治事物起源 6 石井研堂著 123頁
缶詰製造の始まり
明治2年版『西洋見聞録』に『ガラス器或いは錫器にいれ、防腐法を以ってこれを密封し云々』と書いてあるのは、今日の缶詰のこと言っている。
缶詰製造の初めは、明治3年中、工部大学雇い教師米国人某が、東京市四谷区津の守に住んで、四季の果物類を缶詰として、自家用に供したのが初めとする。
当時この外人に雇われ、缶詰製造を手伝いしたのは、千葉県行徳の山田箕之助という者てで同人の先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死)は、以前将軍家の漬物方を勤めたことあり、その家記によれば、寛永年間北条阿波守が天草征討の際、軍中に副食物の乏しきによって小握り飯には一切黄粉塩を用いたが、後品切れにて胡麻塩に改めたのも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かく切って味噌溜りに漬けて、溜り漬けと称し、軍用に提供した。
然るに文化年間、露人北海道に乱入したる頃、近藤重蔵、石狩において、右の溜漬けを醤油漬に改めたるより。これを紋別漬という云々とあり。
かくて箕之助は、明治7年前記米人の缶詰法によって、この紋別漬を改良し、他の野菜を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を造りたる起源である。同年、三井物産社より、下谷池之端某店に委託し、紋別漬200個をハワイおよび米国に輸出したのを持って、缶詰輸出の初めとなる。
今では紋別漬なる漬物はない。下谷池之端某店とは酒悦のことだろうか。この缶詰の起源は日本缶詰史とはやや違うような気がする。日本の缶詰の初期は醤油漬の魚・肉・野菜等のものが多い。
缶詰製造の始まり
明治2年版『西洋見聞録』に『ガラス器或いは錫器にいれ、防腐法を以ってこれを密封し云々』と書いてあるのは、今日の缶詰のこと言っている。
缶詰製造の初めは、明治3年中、工部大学雇い教師米国人某が、東京市四谷区津の守に住んで、四季の果物類を缶詰として、自家用に供したのが初めとする。
当時この外人に雇われ、缶詰製造を手伝いしたのは、千葉県行徳の山田箕之助という者てで同人の先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死)は、以前将軍家の漬物方を勤めたことあり、その家記によれば、寛永年間北条阿波守が天草征討の際、軍中に副食物の乏しきによって小握り飯には一切黄粉塩を用いたが、後品切れにて胡麻塩に改めたのも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かく切って味噌溜りに漬けて、溜り漬けと称し、軍用に提供した。
然るに文化年間、露人北海道に乱入したる頃、近藤重蔵、石狩において、右の溜漬けを醤油漬に改めたるより。これを紋別漬という云々とあり。
かくて箕之助は、明治7年前記米人の缶詰法によって、この紋別漬を改良し、他の野菜を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を造りたる起源である。同年、三井物産社より、下谷池之端某店に委託し、紋別漬200個をハワイおよび米国に輸出したのを持って、缶詰輸出の初めとなる。
今では紋別漬なる漬物はない。下谷池之端某店とは酒悦のことだろうか。この缶詰の起源は日本缶詰史とはやや違うような気がする。日本の缶詰の初期は醤油漬の魚・肉・野菜等のものが多い。