天保の老人
明治の中頃になって“天保の老人”という悪口が流行した、これはこの天保生まれ(1830年から1843年)の明治の指導者連中が、新しい文明開化に乗り遅れている様子を皮肉った。榎本文部大臣が更迭された裏事情も新しい海外情報によって榎本の持っていた情報が旧くなったためでもある。
戦後も20年経って、つまり東京オリンピックも終わって、外貨もたまり、日本人が金さえあれば自由に海外に旅行にいけて、敗戦したと言う自信喪失から回復した時間だった。平成のいまも20年を過ぎれば『昭和、時に30年代以後良かった』と言う懐旧の情が出てくる時間でもある。
彰義隊を題材とした歌舞伎を堂々と明治東京の中心地で上演できたのも20年と言う時間だった。福神漬が生まれ育った時期に当たる。
2000年12月13日付の毎日新聞には このような記事があって
「天保老人の臆病と英知」
明治20年代天保生まれの老人達たちは、若いときには攘夷を叫んで外国人の排斥を盛んに行った口 だが、その後、実際に欧米の土を踏んだとき、近代機械文明を目の当たりにして、 例外なく、強い劣等感を植え付けられて帰国した。ひとことで言えば、彼らはひ弱 な日本への愛国心をかき立てられると同時に、欧米列強に対して、こんな相手と 戦って勝てるわけがないという恐怖感を共有していたのである。
明治の中頃になって“天保の老人”という悪口が流行した、これはこの天保生まれ(1830年から1843年)の明治の指導者連中が、新しい文明開化に乗り遅れている様子を皮肉った。榎本文部大臣が更迭された裏事情も新しい海外情報によって榎本の持っていた情報が旧くなったためでもある。
戦後も20年経って、つまり東京オリンピックも終わって、外貨もたまり、日本人が金さえあれば自由に海外に旅行にいけて、敗戦したと言う自信喪失から回復した時間だった。平成のいまも20年を過ぎれば『昭和、時に30年代以後良かった』と言う懐旧の情が出てくる時間でもある。
彰義隊を題材とした歌舞伎を堂々と明治東京の中心地で上演できたのも20年と言う時間だった。福神漬が生まれ育った時期に当たる。
2000年12月13日付の毎日新聞には このような記事があって
「天保老人の臆病と英知」
明治20年代天保生まれの老人達たちは、若いときには攘夷を叫んで外国人の排斥を盛んに行った口 だが、その後、実際に欧米の土を踏んだとき、近代機械文明を目の当たりにして、 例外なく、強い劣等感を植え付けられて帰国した。ひとことで言えば、彼らはひ弱 な日本への愛国心をかき立てられると同時に、欧米列強に対して、こんな相手と 戦って勝てるわけがないという恐怖感を共有していたのである。