年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬のなぞが一つ解けた

2009年01月03日 | 福神漬
一つの福神漬のなぞが解けた
明治28年9月30日資料作成
大倉喜八郎が福神漬300樽を寄贈している。
『留守第4師団より大倉組よりの献納福神漬の件』
日清戦争が終わったのが明治28年4月だがどうして留守部隊だった大阪の第四師団へ大倉喜八郎の大倉組が福神漬を献納したのだかわからなかった。
 『彰義隊』吉村昭著を正月休みに読んでいたら、この事情がわかってきた。この当時の直前大阪第四師団の師団長が北白川宮能久親王で明治26年から赴任していた。北白川宮能久親王は上野戦争の時は輪王寺宮であった。日清戦争が始まり明治28年1月15日に有栖川熾仁親王が亡くなると兄の小松宮が直ちに参謀本部長となり、弟の北白川宮は第四師団長を免ぜられ近衛師団長となり広島に赴任した。5日後、日清は休戦した(3月15日)。

有栖川熾仁親王は戊辰戦争時、新政府軍の東征大総督で駿府で輪王寺宮と会見し、後に上野で戦った。


大倉喜八郎は上野戦争の時。官軍が上野の山に立てこもっていた彰義隊を攻撃する前夜に大倉は突然、彰義隊に連行された。官軍に鉄砲を売っていたからだ。このエピソードがあるので北白川殿下が輪王寺宮であったことは当然知っていた。
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