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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

色川三中の家事誌を読む

2019年09月10日 | 宅老のグチ

過日暑い日、都立中央図書館で土浦の色川三中の家事誌を読む。豊洲移転が順調に準備されていた時、家事誌が嘉永年間の本だけが離れたところにあったことに気が付かないで土浦市の図書館へ行った。そこで土浦の歴史博物館で家事誌の残りを読んだ。当時は今と違って花香恭次郎関係の文献を探っていたので、学芸員に聞いても何も得られなかった。ただ1時間ほど話しているうちに学芸員の言葉で土浦市内に高野長英の墓があるという。理由などはわからないという。

 最近再び、鶴見俊輔著の高野長英の評伝本を読んでいたところ、色川三中が高野長英の最後の状況の文献を持っていることを知った。土浦は江戸時代関東では銚子・野田に次いで醤油醸造業の盛んな町だった。

 明治の文献で新治県(今の土浦市付近)の裁判官に江藤新平が花香恭法(恭次郎の養父)を任命さしている。土浦は物流が水運で人の移動が水戸街道のようだった。当然水戸藩の影響が強い。水戸と浦賀は開国の方法が異なっていた。今は文献が整頓されつつあるのだが水戸藩の攘夷鎖国が強調されているドラマが多い。実際は小栗上野介のような人物が存在していたことを忘れている。明治になって開国派の資産で速やかに欧米に追い付けた。ただ薩長史観でこのことはあまり知られていない。日露戦争が終わって東郷平八郎が小栗上野介の遺児に横須賀の工場を作ってくれたことを感謝した。バルチック艦隊の長旅で船を補修することもなく日本海に入った。船隊のスピードは遅く、ほぼ全滅となった。

 築地の豊洲移転であまりにも水産仲卸が築地残留を強調しすぎ、豊洲の設計に参加することもなく時間が過ぎた。結局オリンピックということで移転したが使いずらい施設となり不満が残っている。青果部は移転の前提で行動しているので、賃料以外は不満がないようだ。

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