木村直樹著長崎奉行の歴史を読む。
福神漬の歴史を調べていると子孫が不可解な行動をとっているのに気が付く。ただ直接の史料があることは少なく間接的な史料しかないことが多い。黒船が浦賀にやってきたとき町の噂で下曽根金三郎の指示で浦賀の寺院を清掃したという。これは切腹を意味するとうわさされていた。結局米国国書を久里浜で受け取り鎖国が消え、開国となり切腹の話が消えた。今では歴史学者も話題にすることもなく今に至る。ところが子孫の行動を見ていると切腹の用意は必然だった。国書の受け取りを一任された戸田伊豆守はかねてからの主張であった開国の方向で事を処理した。
戸田伊豆守氏栄のおじは長崎奉行を務め、在任中に死去した戸田氏猛である。最近の長崎奉行の本ではたびたび出てくる人物である。長崎市民に対する厳正な行政が不評を招き、死後も埋葬された墓地の墓に小便禁止というお触れまで出ているほど嫌われていた。さらに長崎に侵入したイギリス船フェ-トン号事件は警備の不備ということで長崎奉行が切腹している。
明治以降の歴史では黒船が突然日本に来たことになっているが文献から結構準備していたが幕府上層部の危機意識がなく、大砲を用意する金もなく、さらに異国の大砲の威力も知らず黒船が来てしまった。日本の大砲では2KMほどしか飛ばず、浦賀水道のをやすやすと通過できる。さらに浦賀水道を占拠されると海運で支えられていた江戸の物資不足が目立つようになる。これはぺリ-以前の異国船が浦賀に来た時問題を生じていた。
この問題を解決するため浦賀与力の中島三郎助が東浦賀の塩仲間の要請で水戸藩と交渉し、便宜を図らってもらった。(中島三郎助文書・附冊より)ここで行徳の塩仲間と浦賀の関係がはっきりしてくる。市川の郷土の歴史を集めている資料館での年報で浦賀の臼井儀兵衛の名前がたびたび出てくる。維新後浦賀ドックの設立でも出てくる人物である。
明治の終わりころ日露戦争の戦費を賄うため塩が専売となり多くの塩業者が消えた。