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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

天保の印旛沼開削工事で

2019年09月17日 | 福神漬

天保の印旛沼開削工事で全体を監督する南町奉行鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)でその配下の記録を見つけた。

天保期の印旛沼堀割普請 (千葉市史編纂委員会/編集)

その中の名前に佐久間健三郎・原善左衛門という名前を見つけた。佐久間健三郎長興は佐久間長敬・原胤昭の父であった。原善左衛門胤輝の娘と結婚したのが胤昭であった。この印旛沼開削工事の目付が戸田寛十郎氏栄(のちの戸田伊豆守氏栄・ぺリ-来航時浦賀奉行)だった。

 花見川の横戸という地名のところが小高くなっていてさらに印旛沼方向の土地が軟弱で掘っても掘っても湧き出る水が泥と共に出るため工事が進まなかったようです。

 印旛沼は佐倉宗五郎伝説もあって、福神漬の史料検索でも度々出ていたの気にはしていたが南町奉行配下の与力が参加していたとは想像もしていませんでした。与力家族の内輪の話は記録もなく、天保の改革で南町奉行の与力は結果として家の断絶まで行った与力もありました。また歌舞伎の七代目市川団十郎が幕府の奢侈禁止で成田山で謹慎していたのもこの時期でした。

 下谷の文化人集団の根岸党は九代目団十郎の時期の歌舞伎の評論家でした。つまり天保の時期から一代後の世代が福神漬の創成期の下谷の人達でした。この関連を見落とす所でした。千葉は江戸時代は町奉行与力や幕臣の知行地が多く細分化されていたため、個別の歴史を調べる人も少ないようです。

                 

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