年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千葉花見川花島観音にて

2019年09月16日 | 福神漬

天保11年頃から水野忠邦は印旛沼開削工事を想定し、情報収集を始めた。二宮尊徳を幕臣にして、工事計画を立てさせたが尊徳の仕法では15年から20年ほどかかる計画だった。貧しい農民等に金銭を貸付、その返済を農閑期に印旛沼開削工事の労働で返済させる仕法だった。

 江戸時代印旛沼の工事計画は3回試みすべて失敗した。昭和21年に食料増産と利根川治水ということで計画が立てられ、昭和41年にやっと完成した。今年の台風15号の被害でも水害はこの工事で千葉は救われた。印旛沼・新川・花見川は日本でも変わっている川で時期によって潮の干満と違う流れ生じる。利根川が増水すると、印旛沼に流れ、新川で5M近く揚水し、花見川へ流し込む。

 京成電車勝田台駅から大和田排水機場へ行き、新川沿いの遊歩道を歩く。弁天橋から川が花見川となり、海までのサイクリング道路が始まる。弁天橋から花島観音まで徒歩3KM45分。花島観音内に月山神社・湯殿山神社・羽黒山神社の碑が建っている。ここの開削は天保の時の分担は庄内藩だったのだろうか。深山幽谷の景色とも思える弁天橋下流は当時の難工事を思い起こす。さらに地形デ-タからM字形だったため、くぼ地の土地の開削は難航し、土砂をとっても一日で流れ込んだ水で元に戻ってしまったようだ。この難工事の風評が江戸にも伝わり、領地替えなど数々の水野忠邦の政策不満が秋になって水野の失脚で終わった。江戸へ工事の難航を報告していた戸田氏栄は夏に駿府町奉行へ転進していたので不評の責任を免れた。お手伝い普請は地域の物価の上昇があった。また夏が工事期間であったため、病死した人も多く、不満だけが残った。

 今となっては二宮尊徳の仕法を使わなかったのだろうか疑問が残る。

 

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