年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

天保の印旛沼開削工事で2

2019年09月19日 | 福神漬

天保の改革のとばっちりで南町奉行の与力の家はズタズタにされた。明治期の原胤昭の関係本から佐久間長敬の略歴をここに記す。

江戸時代犯罪・刑罰事例集 佐久間長敬〔ほか著〕 原胤昭〔編集〕・ 尾佐竹猛〔編集

 佐久間長敬の略歴 小山松吉文

佐久間家は代々江戸南町奉行組与力だった。長敬は長興の長男にして天保10年に生まれた。嘉永3年4月継承を許され、祖父彦太夫の勤功により、与力見習いとなった。年は11歳であった。かねて奉行から(南町奉行遠山景元か?)15歳と心得べしとの達しがあった。15歳と勤務し、19歳の時吟味方に昇進した。吟味方は与力の中の重要な役目で青年にしてはこのごとく栄進したのは、長敬の才能が非凡であったと思われるが、長敬の背後に実父長興がおって、彼を指導したことがあった。

 実父長興は佐久間彦太夫の養子となって文政13年11月に南町奉行与力見習いとなり、天保15年禄高150石となったが弘化2年鳥居甲斐守の事件に連座し、お暇を仰せ付けられた。この時より別家と偽り別居していたのに嘉永5年7月、本家相続人長敬が幼年につき、後見のため、同居を許され,安政2年おとがめは赦免となった。実父長興は鬼佐久間と言われるほどの一部の人に恐れられていた。佐久間長敬の実弟である原胤昭が目撃したのは兄が町奉行から帰ると吟味の内容を父に尋ね、その教えを得ることが度々あった。吟味に関することがあると家人を遠ざけ、近親にもこれを聞かさなかった。佐久間長敬の書いた(吟味の口伝)は父長興からの口伝を書き綴ったといえる。

 印旛沼開削工事で鳥居甲斐守が南町奉行であったため、配下である与力たちは不評な工事現場に行かざるを得なかった。嘉永5年名奉行として今に聞こえる遠山の金さんこと遠山景元 は南町奉行を引退した。佐久間長興の同居の件は置き土産かもしれない。

福神漬のからみで色々人間関係を調べていると、南町奉行関係者が度々出てくる。少ない人数で江戸の治安を維持しているので二足の草鞋の人達を利用しなければならないと考える。弱体した江戸幕府が対外政策に追われ、資金もなく治安維持となれば、節操のない人物を配下として使うしかない。新選組などはその一例かもしれない。

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