内田魯庵全集3巻
自由民権の想い出
明治の14年から15年頃が自由民権の叫びが最も盛んだった。その頃の自由民権は幕末の尊王攘夷の浪士気分に佐倉宗五郎的な百姓一揆、直訴気分を加味した反政府活動であって、自由民権を馬印としていても、その言葉の内容は本当に理解していなかったし、又どうでも良かった。ただ権威に反抗して悲憤慷慨し大言壮語し反政府の規制を煽るを快とする政治運動だった。その頃の暴君県知事の代表は福島県知事三島通庸でその暴政に反抗したのが県議会議長の河野広中であった。三島が強権で威嚇し、警察力を使い土木工事を行った。福島事件はこの暴力に対抗して発生した陰謀計画とされた。当時内乱罪に対する臨時法廷たる高等法院が初めて創られ開かれ、玉乃世履が裁判官となって内乱罪6名を審問した公判は新聞に公判記録が掲載され(高等法院公判傍聴筆記)という冊子も公刊された。首魁河野広中が義人と祭り上げられ、三島の暴政を糾弾した法廷の雄弁は全国の青年の血を騒がした。中でも被告中最年少で美男の雄弁家であった花香恭次郎は東都の人気を沸かしてその雄弁や動静が当時の話題の中心となって、相撲や役者より以上騒がれた。人知れず思いを焦がす若い女もあったという噂があった。判決後、被告人は小林清親によって浮世絵(原胤昭・文)となった。
花香は福島事件の6人の被告人で唯一東京士族であった。反明治政府という江戸の気分が残る東京で支持されたかもしれない。教科書で自由民権運動福島事件が取り上げているが高等法院の裁判で全員福島県人が被告人ならば東京市民が公判のやり取りが方言で理解できなかった思われる。花香が最初の被告人で論戦が始まった。東京士族なので盛り上がった。このことが明治政府を動かし、以後の加波山事件などの民権激化事件を強盗ののような犯罪で起訴し、一般犯罪扱いし、世間の目を欺いた。いま事件の関係子孫は犯罪者の縁者ということで記録もなく・語ることもなく消えつつある。
政治に関係ないと思われる福神漬の中身にナタマメがあるということで記憶を取り戻す。