年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

幕府歴史書編纂者中里新十郎呪い

2019年09月15日 | 福神漬

 

長井家の墓を訪問。墓碑にある長井昌言の死亡時期の確認。明治6年11月22日だろう。はっきり見えなかったが暇なときに住職に確認すればよいだろう。これで二つの問題が解消された。幕臣伝説 氏家幹人著で幕府の歴史書(干城録)を共同で編纂していた中里新十郎が乱心し戸田勘十郎氏栄宅に忍び込み氏栄を暗殺しようとした。しかし返り討ちにあい、中里は死去した。氏家氏の見解だと戸田氏栄によるパワハラと業績(アカハラ)奪ったという。この後ひねくれものの幕臣大八木醇堂の因縁話で戸田氏栄が大坂町奉行の時死去したが7月21日(届け出は8月21日)で中里が死去した日と同じだった。さらに長男が狂死したのも次男の大久保雄之助・三男長井五右衛門昌言も7月21日に死去したという。五反田・本立寺の長井家の墓碑を確認すると11月がはっきりと見えた。これは新暦か旧暦とかは関係ない月である。さらに花香恭次郎が長井昌言の生存中に横浜の商家(明治5年5月)に勤める。この時期新橋-横浜の鉄道開業がある。明治5年秋。明治6年4月に横浜の商社を退職し、茨城県の鳥栖村へ行ったのも長井家の影響だろう。鳥栖村は蛮社の獄の始まりである小笠原渡航計画の無量寿寺が付近にある。さらに長井家の知行地の近くである。花香家でこの手配は無理と感じる。明治3から4年頃南茅場町の商家に勤めていた時、三菱の会社とどのような関係があったのだろうか。三菱は明治の初め南茅場町18番地に拠点を設けた。ほぼ花香恭次郎がいたころ、三菱が南茅場町で始まった。まだ資料が見つからない。

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