新宿歴史博物館は今まで都営新宿線曙橋駅から訪問していたが、都営浅草線泉岳寺駅でバス便を見つけ、四谷3丁目のバス停で降りて向かった。四谷3丁目の交差点に消防博物館があって、そこでは江戸時代の火消しの模様から現代の消防への過程がよくわかる。後でこの中に図書室があって、高野長英の放火脱獄の件の資料を探してみたい。江戸時代は紙と木で出来ていた江戸は火事が多かった。
平成26年度の新宿歴史博物館で新宿荒木町に生まれた幕末維新という特別展があって、その冊子を求めて、消防博物館から歩いて行った。10分もかからず着く。福島県郡山市出身の石井研堂が書いた(明治事物起源)の缶詰の始まりで明治3年中、工部大学のお雇い教師米国人某が、東京市四谷区津の守に住まい手云々。 と書いてあってこの米国人は他の起源本ではベンジャミン・スミス・ライマンとなっている。しかしライマンなら来日は明治3年では無いし、四谷に住んだ様子もない。この缶詰の始まりの文章は個別に検証すると誤記が多く、文献としては役に立たない。日本缶詰協会の日本缶詰史ではコラム扱いとなっている。
もう何年も福神漬の歴史を調べているが石井の誤記は意図的に書いたと思われる。その理由は明治事物起源の編纂時期は日清・日露の戦勝後で、明治維新が薩長の力といううぬぼれの言論圧力に東北人の意地があるように感じる。四谷区津の守は江戸時代は美濃国高須藩松平家の上屋敷だった。その地で幕末の高須4兄弟が生まれた。福島県郡山も戊辰戦争で大きな被害を受けていて、さらに東北地方は明治政府の人たちからは、「白河以北一山百文」と言われていました。 「白 河以北一山百文」というのは、白河から北の地域、つまり東北地方は、「一山百文」程度しか値打ちがないと いう意味です。
この石井の缶詰の始まりの文は石井も薩長史観をやんわり否定する事実を列記し、時に誤記をいれ、批判された時の逃げ道を作っていた気がします。
缶詰に入れた漬物の由来から書き始め、島原の乱(鎖国の原因となった)軍用漬物、幕府漬物方の箱館五稜郭での千葉行徳の漬物商人の戦死、文化年間の近藤重蔵の紋別漬、アメリカのペリ―来航から幕末が始まっていないと暗に記述している。缶詰食品は輸出産業。新宿の農事試験場のテスト製造、北海道開拓使の缶詰製造と列記している。項目は事実としてあるが全体の論理として石井の非薩長史観が隠れて見える。
