鎌倉建長寺へ行って、タクワン和尚が京都の寺院が江戸幕府の保護が無く寂れている状態を見て、徳川3代将軍家光の力を借りようと改心した鎌倉旅行を辿る旅をしたことがあった。偶然建長寺に河村瑞賢の墓を見つけ、墓碑をゆっくり読んで、江戸時代初期の日本一周の海運網を作った功績を実感した。この海運網で物流が活性化し、鎖国もあって日本独自の内国経済が出来た。決済手段として手形、コメ相場の統計等から先物取引等の今でも世界に通用することが考えが生まれた。犯罪捜査の指紋(主に手の紋)から現金を運ばなくても旅が出来た。手形は紙に手を擦り付け、この証文を持参した人に支払うという。今の手形にも譲渡という欄があって、手形を譲ることが出来る。
日本の物流網は平地が少なく,山や谷と急流の河で車というものが大陸中国と比べて発達しなかった感がある。一度に重い物を運べる水運が発達したと思われる。それでも日本海海運網で太平洋岸は黒潮という厄介な海流があって、銚子沖から江戸に向かうのは難しかったようだ。
明治事物起源を著わした石井研堂は江戸漂流記を著わし、明治維新の源流を探ったと思われる。情報鎖国で一般人が異国に行けるのは漂流しかなかった。その漂流記でも記録があるのは生き残った人だけで、無数の漁民船員があった。多くの江戸時代の海難は太平洋側が目立ち、フィッリピンまで流されて帰国した船員もあるようだ。
海難は秋から冬にかけて多いと思うのだがやはり正月用の物流状況を示している感じる。こんなことを思いながら河村瑞賢が福神漬の考案者の一人となっているのは不思議である。
根拠のない創作伝説は時間が経てば消える。まだ河村瑞賢説は生き残っている。