年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

華夷変態で

2023年04月27日 | 宅老のグチ
べったら市の歴史から砂糖というものの日本の発展史を調べていた。次に福神漬を調べたのだが、命名由来で出て来る人物で秋田湯沢の了翁禅師説は地元と上野寛永寺の周辺の人たちによって宣伝されている。その理由は寛永寺で学ぶ学僧のために、廃棄する野菜の切りくずを漬物したということから福神漬の由来という。同様な根拠で河村瑞賢のお盆の御供え物が海流れて、それを切り刻んで漬物にしたということから福神漬の命名由来の一人となっている。
 明治に入って出来た漬物で江戸時代の命名由来はある作意があると思われるが、食の世界では結構元祖・本家騒動があって、根拠の文献が少ないため捏造しやすい。

了翁禅師説を追って行くと、どうしても黄檗宗のことを調べることになる。不忍池辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。そこで 了翁禅師の碑の場所を聞いたところ、当山は天台宗で禅師は禅宗なので知らないと言われた思い出があります。台東区の観光案内で
了翁禅師塔碑 台東区上野桜木1-14-11の所にあります。これは寛永寺の中にあるのです。また寛永寺と関係のある文京区の駒込学園の歴代の校長のあいさつでしばしば了翁禅師の話が出て、付け足しで福神漬が出て来る。この了翁さんを調べると、京都宇治の万福寺で修行したことが出る。下記の本を読むと中国の明が落ちぶれ清に変わる時代に隠元禅師が日本に来て中国風の寺院を京都宇治に作った。この寺院は中国福建省風になっていた。中国宗時代の禅宗が室町の日本文化に影響し茶道が抹茶で福建の文化は江戸時代の煎茶という。
 明清の混乱期に長崎の中国商人は心のよりどころとして長崎に四福寺 (興福寺、福済寺、崇福寺、聖福寺)という黄檗宗の寺院があります。これも福ということから福神漬の命名由来説を支えます。中国の人は福という字はお祝いの字のように感じる。
 江戸時代の長崎貿易の詳細を見ると文献では圧倒的にオランダとの交易ですが実際の数字では中国船との交易で日本の輸入は消耗品の砂糖が幕府の問題となっていました。この砂糖の交易で金銀の流出が問題となっていました。明治の時も砂糖の輸入は多く政治の問題となっていて、富国強兵のための外貨不足の対策の中心は砂糖消費の抑制でした。
 江戸時代の砂糖貿易の最終到着地点は江戸城大奥の女性たちの砂糖消費でした。
子どもたちに語る日中二千年史 小島 毅著 

長崎に四福寺の成立はキリシタン禁教の影響で、今の戸籍制度のような寺受け証文を書いてもらうための長崎在住の中国商人が寺院を創ったようです。そのため福建風の寺院の形という。
 なにか福神漬を調べると不思議なことが次々と出て来る。
  
コメント
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