年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

敗戦情報の聞き込み

2023年04月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴がおかしく、本来なら陸軍特別操縦一期生の人たちの軍歴を照会すると、始まりは昭和18年10月1日からとなる。しかし埼玉県に軍歴照会した所、叔父の軍歴は11月1日となっていた。このひと月の差は毎日新聞埼玉版昭和18年9月8日の記事で、叔父は陸軍特別操縦一期生の選抜試験では不合格だった。
 産みの母との会話で(行っちまったんだよ)という言葉を思い出す。言葉の感じでは家族に無断で受験したと感じていた。従って招集令状が来ても飛行機に乗るとは思っていなかったと思われる。なぜ希望しない受験をしたかというと、叔父が学んでいた埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)は小学校の教師を養成する学校で一部に農業指導者養成もあって、さらに卒業後一定の年数を教師と勤める条件で授業料が安かったと思う。最初から軍人を目指していたら師範学校に行く前に士官学校の受験もあったと思われるがそのような話は法事の席でも出ていなかった。
 陸軍特別操縦一期生の願書申請の新聞記事で大学等の軍事教官経由で願書を出すことが認められていた。叔父はそのルートで家族に無断で提出、いや強制的に願書を出したと思う。せめてものささやかな抵抗は試験に落ちることだった。多分親族の経営している漬物業者(陸軍に福神漬等を納品していた)戦争に負けそうだという情報を入手していたように思われる。表向きは日本が勝っていると公言していても密かに学校内では戦争がうまくいっていないと思っていた感じがする。
 この件で練馬の陸軍納のタクワン業者の子孫に聞き込みをした。当然当時は敗戦を公言すると罰せられるので薄々の行動で空襲の少ない地域に疎開先を用意していたという。戦後でも負け戦と言いうことであまり話したくない、聞きたくない話題であって、疎開の準備行動から推測出来たという。
 陸軍納のタクワン漬は4斗樽で納品した。納品先は武蔵野鉄道石神井駅で今の西武線石神井公園駅の貨物駅まで大八車で運んだという。当時の陸軍の食事はタクワンと梅干が主力であった。とんでもない販売量でお金が家に貯まっていたという。この金も敗戦後に新円切り替えで無価値となったという。
 練馬の郷土資料館のふるさと文化館での練馬大根のイベントでは軍事産業だったタクワン製造業の歴史が消えている。
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