年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

HISTORY of 日本郵船

2008年09月15日 | 福神漬
HISTORY of 日本郵船
日本郵船のホームページがいつの間にか新しくなったようで『日本郵船歴史博物館』のこぼれ話が日本郵船の会社の歴史に『福神漬』のエピソードが昇格したようである。日本最大の商船会社に色々なこぼれ話があると思うが『福神漬』の話題ほど他の会社等や外国の方々を傷つけることのない話題は他にないだろう。しかし、この件で『日本郵船歴史博物館』の学芸員に史料の根拠を尋ねたところ、記録はないが社員に広く知られていた事実なのであえて社内報等に書いたと言う。
 福神漬の歴史は三菱グループを深く縁のある漬物であることが調べれば調べるほど感じるのである。記録はないが記憶があるのが漬物である。多くの書物に福神漬が明治18年に創製となっているが何処にその根拠があるのだろうか。
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平成21年度の市場休

2008年09月14日 | 築地市場にて
平成21年度の市場休
やっと21年度の築地市場の休市日の日程を手に入れた。五月は世間は5連休だが築地は5月4日は臨時開市、6月が毎週水曜日が休市は今年と同じ。注目すること敬老の日が移動したため秋に5連休があるが築地は当然臨時開日があって9月21日が休みでない。一年274日開市となる。
今の魚の人たちの準備状況から考えると水産部仲卸の店舗異動は平成22年以後になるだろうが景気の状態でかなりの人たちが名誉ある廃業の道を選ぶだろう。
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べったら市保存会

2008年09月13日 | べったら市
べったら市保存会
毎年10月の19日20日に日本橋大伝馬町の宝田恵比寿神社を中心とした場所で『べったら市』が開催されます。この祭りは中央区という商業の中心地でビルに囲まれた街中でにぎわうお祭りです。
 路上で立ち飲みする東京とは思えない風景が見られます。でもどうしてここで漬物の市が有名になったのはあまり知られていないようです。日本橋魚河岸・本町の薬問屋街・
大伝馬町の衣料問屋街の集積地に商家の祭りに供えるものや供応する食の品を用意する市として発展しました。今日本橋の地元の人達が保存会を作って祭りの健全な発展を維持しています。
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歌舞伎と魚河岸

2008年09月12日 | 福神漬
歌舞伎と魚河岸
魚河岸と吉原が江戸歌舞伎を育てたが明治時代の本を読んでいると京橋大根河岸・神田多町の青果市場の人達が歌舞伎後援をしている記述が目立つのは京橋大根河岸の青果問屋三周の主人の交友の文が明治時代に活躍した芸能人の支援者として文章に残ったためだろうか。また魚河岸の人達のことが明治時代にあまり出ないのは明治のコレラ等の伝染病の流行で度々休業に追い込まれたし武士が幕末からから明治中頃に江戸市内から消えたため消費者が減って不況になったためだろうか。
歌舞伎の解説の本には魚河岸の人達と歌舞伎の関係が記述されているが浅草へ天保の改革(1841年)のひとつとして江戸市中に散在していた歌舞伎三座(中村座、市村座、河原崎座)が移転した時以前のことではないのだろうか。
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『ヒト・モノ・カネ』の開国

2008年09月11日 | 築地市場にて
『ヒト・モノ・カネ』の開国
どうやら21世紀に入って原油高騰という予期せぬ事態に『ヒト』の開国が迫られているようである。少子高齢化の対策として外国人労働者の導入があげられるがまだ論議が煮詰まっているとは思えない。
 これからキムチの歴史を調べていくと日本における外国人労働の過去の調査は避けられない。諸外国では第二次大戦の戦後ははるか昔に終わっていて日本だけがまだ残っていると言う。これは戦前の歴史の処理を先送りした結果であって時間が経てばよいというものではない。漬物なんかに現れる歴史の残滓は時間が経てば判らなくなる。カレーライスについている福神漬も数奇な歴史があるのだから。
『ヒト・モノ・カネ』の開国で一番遅れているのが『ヒト』の開国で、日本人が一番苦手な問題である。でもそろそろキチットしないと密入国の現状と法の整合性が取れなくなるだろう。中国野菜をいかに否認しても食しないでは生きてはいけない。戦後の食糧難の時期に配給だけで闇市の食料を買わないで餓死した裁判官がいたが今も国産のみの食料品では生活水準の維持が出来ないだろう。
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事故米のとばっちり

2008年09月10日 | 宅老のグチ
事故米のとばっちり
例の事故米のとばっちりが拡大して、色々なところに問い合わせが来ている。漬物に関しては酒かす、米麹が関係してくる。何処までいつまで事件が広がるのだろうか。米と言う基本商品は歴史も古く影響は大きい。なぜか風評被害の拡大を恐れているようで新聞は抑え気味。
何回も食品事故があると不感症となり又かという気持ちとなる。いけないことだが世間の常識と業界の常識の差をいつも注意しなければならない。
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東京湾でイイダコが釣れる季節

2008年09月09日 | 築地市場にて
東京湾でイイダコが釣れる季節
東京湾の富津沖でイイダコ釣りが始まったみたいで、ラッキョウの出番となりました。昔からイイダコ釣りはラッキョウと言われていました、生きた餌を付けることの苦手な人は助かります。どうやら白いものに反応するようでラッキョウでなくてもよいのですが船宿から注文が多いのはラッキョウのようでいつか甘らっきょうが欠品していたので青球らっきょうを出しましたがクレームは来ませんでした。青球とは茎の青い部分があるらっきょうで食品としての品質には問題ありません。でもイイダコは釣れたのでしょうか。もう40年も前の話です。
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やまと新聞

2008年09月08日 | 福神漬
やまと新聞
明治19年に条野伝平(日本画家鏑木清方の父)という人たちが創刊した、いわゆる「小新聞」で、「大新聞」が男性知識人の読むものとされたのに対し、「女の読むべき新聞」としてスタートしました。
 本社は東京市京橋区尾張町二丁目 、今の銀座にありました。銀座に当時の報道機関が集中し、歌舞伎等の演劇も次第に浅草から今の銀座・築地に移転して来ました。今ではあまり考えられないのですが銀座の文明開化と浅草の江戸文化と当時はまだ残っていたようです。福神漬の創製された上野池之端はちょうど両者の中間ともいえるがどちらかと言えば江戸文化よりでした。しかし周囲(池之端)に三菱の茅町本邸を中心とした三菱関係者が住んでくるようになります。
日本で初めて講談の筆記(三遊亭円朝のもの)を連載したのは、このやまと新聞です。連載読み物の威力は大きく、日本語の文体が大きく変り、創刊後間もなく1万部を超え、明治22年には東京でいちばん売れる新聞になりました。
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鏑木清方(かぶらぎ きよたか)

2008年09月07日 | べったら市
鏑木清方
『明治の東京』を読む
明治時代の築地に住んでいた画家。三遊亭円朝とも交友あり、大根河岸の三周と銀座にあった金沢亭という寄席に出入りし、子息富太郎氏とは寝起きを共にした関係であった。
 鏑木清方の父は條野伝平で明治5年東京日日新聞の条野伝平・西田伝助・落合芳幾によって創刊者しました。
 清方の随筆『明治の東京』にべったら市があった町の梅花亭のどら焼きがでてきます。さらにべったら市の名称にもクレームを付けていて江戸の人達は浅漬と呼んでいて田舎ものがいつの間にか『 べったら漬』と名前を変えたと言っている。明治20年代は東京の報知新聞・東京日日新聞等は今のべったら漬を浅漬大根と書いていて、どちらかと言えば大阪からきた東京朝日新聞が始めから『べったら』と表記していたように思える。
 明治の東京の話は江戸時代から東京にいた人達はおおむね明治20年頃までは幕府ヒイキで反明治政府の心が食べ物とか言葉とかでフトでてくる。
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築地川の船舶の不法占拠

2008年09月06日 | 築地市場にて
築地川の船舶の不法占拠
過日浜離宮前の歩道に都の港湾局の築地川に止めてある船舶の不法占拠である旨の看板があった。しかし本日にまでに看板が消えていた。築地の周辺には色々説明できないものがいっぱいあって、豊洲の汚染反対している人達にも思惑がある。
 過去の経緯はなかなか文章にならずにいたものが多く、築地市場の中にもおかしい部分はかなりあって外部の人達に聞かれても答えられないことがある。
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食の物価上昇

2008年09月05日 | 築地市場にて
食の物価上昇
戦時戦後時の状況
国策炊き 最近毎日新聞で特集があったため、苦難の時期を経験した方々が書いていますが米不足食料不足の時代に政府が普及させたかった米のたき方で少ない米を見た目で多くなるようなたき方。その方法によると通常の炊き方より二割以上増えると言う。
楠公飯とは、楠正成の発明した米のたき方だという。まず米を煎り、その米の三倍量の熱湯中に投じ、長時間にたきあげる。
 こんな時代があったことはすでに忘れ去れたが今と違って時間が豊富にあっておいしく工夫するしかなかった(しかし絶対においしくならなかった=苦しい、貧しい時代の思い出)。当然こんな時代は都市においてのみ漬物業が存在できただけで地方は自家製の漬物で販売業は成り立たなかった。統制経済という制度があってヤミで東京などに食料を持ってくる工夫もなされて、イモ電車などと言われていた路線もあった。イモ電車 - 東武東上本線のこと。川越市の名産「サツマイモ」でを求め、戦後に買出し客がこの路線に多く乗ったということとで江戸時代から新河岸川水運を利用して江戸に運ばれていた。食料自給率の少ない日本で危機が訪れた時は米とイモが中心となる食生活となるだろう。問題は不足するタンパク質をどのようなもので補うのだろう。雑食性のあるニワトリとブタしかないような気がする。
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北白川宮能久親王(きたしらかわよしひとしんのう)

2008年09月04日 | 福神漬
北白川宮能久親王(きたしらかわよしひとしんのう)
千代田区北の丸公園にある旧近衛師団司令部庁舎を改修してできた「東京国立近代美術館工芸館」あります。その東隣に「北白川宮能久親王銅像」があります。
江戸から明治にかけて、東叡山寛永寺(上野)を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。幕末の輪王寺宮は後の北白川宮能久親王で慶応3年(1867)21歳のとき輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に反官軍の代表に擁立されています。
 吉村昭著『彰義隊』によると、明治維新の時、有栖川宮熾仁親王は恭順を条件に徳川慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮と静岡で会見し、宮に慶喜の恭順の意思を問うている。一方で、公現入道親王(後の北白川宮能久親王)のもう一つの目的であった東征中止については、有栖川熾仁親王はこれを断固拒否した。天皇家子息でありながら幕府側とみなされ、維新後、謹慎生活の後ドイツに留学し陸軍に入りました。日清戦争後台湾出兵を志願し台湾にて死去しました。
 福神漬の『酒悦』の店名は『輪王寺宮』からいただいたと言われています。従って明治維新後、店主の行動はどちらかと言えば反明治政府の人達との交流が目立ちます。

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相撲茶屋

2008年09月03日 | 福神漬
相撲茶屋
ひょんなことから相撲茶屋のことを調べることとなったが今でも存在するのに資料があまりにも少ない。閉鎖的といえば聞こえがよいのだが関心がないというのが本音だろう。NHKの全国放送によって競争とは無縁の世界になったため昔の制度が残ってしまったのだろう。
 明治時代の終わりまで、帝国劇場が出来るまでは歌舞伎等の芝居を見るためには芝居茶屋を通じて観ることになっていた。切符の手配や交通手段の手配等が茶屋の人達の手配で行われていてその様子は今泉みね『なごりの夢』に生き生きと描かれている。芝居見物当日いや前日から準備が行われ朝早くから夕方までの芝居興行につきあうこととなる。平成の今でも相撲は本場所の時間は午前9時から夕方6時まで行われていて江戸時代とほぼ同じような気がする。江戸時代は仕切りの時間制限がなかったので番組が今より少なかったかもしれない。

江戸末期に浅草での芝居興行は午前6時頃から午後5時頃までの興行でしたから、芝居見物は一日がかりでした。見物客は芝居茶屋を通して入る上客と木戸から入る一般客があって、上客は桟敷で食事は芝居茶屋で取ります。一般客は土間で『かべす』(菓子・弁当・寿司のこと)の客と言って軽蔑していました。相撲茶屋は制度的には芝居茶屋の同様な江戸時代の興行維持の仕組みかもしれません。相撲の良い桟敷席は相撲茶屋に独占されていて一般客には良い席が少ないと言われています。

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影の味

2008年09月02日 | 宅老のグチ
影の味
漬物の歴史なんて表向きに記述なんて殆どなく、推測しかないように思える。表の歴史は勝者の歴史ならば漬物の歴史は敗者や勝者の影者・置き去られた者等記録にならない人達の残滓かもしれない。
 『粉もん』庶民の食文化 熊谷真菜著から
『コナス・コネコネ・コネヤ・ゴネル』から『粉飾決算』という言葉から『こな』はいい印象のある言葉ではない。粉食の文化は庶民の文化で食料事情が許す最近まで隠れた味だった。粒食(米)の日本の歴史上石高制などの社会的意味があって、粉食は時代の変わり目の外国から様々な方法で伝来したが戦前までは『代用食』としかならなかった。
 戦後日本の食糧難の時期にアメリカから余剰農産物が日本にやってきた。日本の米に対する攻撃で『米は悪玉。麦は善玉』『米は塩を運ぶ車』として漬物の塩分が栄養学者によって攻撃された。今でも成人病予防として塩分過多は悪玉となっている。このアメリカの小麦戦略によって脂肪摂取量が増え労働量の減った日本人はメタボになったのである。しかし如何に戦略的に小麦を日本の食文化に入れようと思っても過去の日本の歴史から一時的なるのだが戦後の日本人は小麦粉をおいしく食べる工夫をした。その代表はインスタントラーメンであり、たこ焼き、うどんである。戦後日本の粉もの食文化を育てた庶民の工夫とも言える。いま小麦等の食料が値上がりしているがまた庶民が工夫してこの危機を乗り越えるだろう。なぜなら生きねばならないのだから。
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重石

2008年09月01日 | 築地市場にて
重石
重石は通常の読み方では『おもし』と読むが、漬物の歴史では『おもいし・重い遺志=意思』とも読みたい。特にキムチの歴史は実際の漬物の石は軽いのだが韓半島の人々と日本の関係を解くにはあまりにも重く、動かすにはどのような方法があるのだろうか。下手な手段では怪我どころか自滅しそうである。
 9月1日は関東大震災の起きた日であるが地震と共に戒厳令になった状況からキムチの歴史を調べたい。
日本の漬物は『樽』という容器に漬けた漬物が基本で同じ漬物でも韓半島のキムチと称するものは古くは『カメ』に入れて漬けていた。今ではプラスティックになっているだろうが風土・気候の関係か『重石』は日本の漬物の特徴ともいえる『樽』だから重石が効くのである。
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