やまと新聞
明治19年に条野伝平(日本画家鏑木清方の父)という人たちが創刊した、いわゆる「小新聞」で、「大新聞」が男性知識人の読むものとされたのに対し、「女の読むべき新聞」としてスタートしました。
本社は東京市京橋区尾張町二丁目 、今の銀座にありました。銀座に当時の報道機関が集中し、歌舞伎等の演劇も次第に浅草から今の銀座・築地に移転して来ました。今ではあまり考えられないのですが銀座の文明開化と浅草の江戸文化と当時はまだ残っていたようです。福神漬の創製された上野池之端はちょうど両者の中間ともいえるがどちらかと言えば江戸文化よりでした。しかし周囲(池之端)に三菱の茅町本邸を中心とした三菱関係者が住んでくるようになります。
日本で初めて講談の筆記(三遊亭円朝のもの)を連載したのは、このやまと新聞です。連載読み物の威力は大きく、日本語の文体が大きく変り、創刊後間もなく1万部を超え、明治22年には東京でいちばん売れる新聞になりました。
明治19年に条野伝平(日本画家鏑木清方の父)という人たちが創刊した、いわゆる「小新聞」で、「大新聞」が男性知識人の読むものとされたのに対し、「女の読むべき新聞」としてスタートしました。
本社は東京市京橋区尾張町二丁目 、今の銀座にありました。銀座に当時の報道機関が集中し、歌舞伎等の演劇も次第に浅草から今の銀座・築地に移転して来ました。今ではあまり考えられないのですが銀座の文明開化と浅草の江戸文化と当時はまだ残っていたようです。福神漬の創製された上野池之端はちょうど両者の中間ともいえるがどちらかと言えば江戸文化よりでした。しかし周囲(池之端)に三菱の茅町本邸を中心とした三菱関係者が住んでくるようになります。
日本で初めて講談の筆記(三遊亭円朝のもの)を連載したのは、このやまと新聞です。連載読み物の威力は大きく、日本語の文体が大きく変り、創刊後間もなく1万部を超え、明治22年には東京でいちばん売れる新聞になりました。