年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

鏑木清方(かぶらぎ きよたか)

2008年09月07日 | べったら市
鏑木清方
『明治の東京』を読む
明治時代の築地に住んでいた画家。三遊亭円朝とも交友あり、大根河岸の三周と銀座にあった金沢亭という寄席に出入りし、子息富太郎氏とは寝起きを共にした関係であった。
 鏑木清方の父は條野伝平で明治5年東京日日新聞の条野伝平・西田伝助・落合芳幾によって創刊者しました。
 清方の随筆『明治の東京』にべったら市があった町の梅花亭のどら焼きがでてきます。さらにべったら市の名称にもクレームを付けていて江戸の人達は浅漬と呼んでいて田舎ものがいつの間にか『 べったら漬』と名前を変えたと言っている。明治20年代は東京の報知新聞・東京日日新聞等は今のべったら漬を浅漬大根と書いていて、どちらかと言えば大阪からきた東京朝日新聞が始めから『べったら』と表記していたように思える。
 明治の東京の話は江戸時代から東京にいた人達はおおむね明治20年頃までは幕府ヒイキで反明治政府の心が食べ物とか言葉とかでフトでてくる。
コメント
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