年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

都の自信

2009年01月16日 | 築地市場にて
都の自信
15日の夕刊で築地市場が2014年12月に豊洲に移転するという。最初の予定は2014年5月連休だったから半年遅れとなる。建設業界からの仕事がほしいという要求がすごかっただろう。都内の大規模な工事があと一~二年で殆ど終わる。


1月5日の都の職員の自信たっぷりした挨拶から豊洲の汚染除去工法に目途がついた気がしていた。
 年始の挨拶で地方から来た人達の質問で『移転はどうなるんですか?』と聞いてくるので、これだけの大不況は移転の問題が早くなるかもしれないと答えた。
 汚染除去の問題がクリアできれば回りのみんなは工事したがる人ばかり、今騒いでいる給付金より経済効果があるとなるだろう。
 なにしろ先のゴールが見えないと設備更新の予定がたたない。パワーの無い電動ターレーとかに更新するには金がかかる。
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榎本武揚没後百周年記念事業とか

2009年01月15日 | 福神漬
榎本武揚没後百周年記念事業とか
昨年はかなり話題となっていたようですが遅れて参加。『べったら市』の歴史を調べているうちに牛乳に関しての食品衛生の取締の記事があって、明治時代の飯田橋に『北辰社』とうい牛乳のための牧場がありました。榎本武揚が関係している幕臣のための授産事業とありました。
 北辰社の牛乳販売人が得意先に牛乳を届ける途中に水増し、小麦粉を解いた水を混ぜたりして販売した疑いがあって巡査が尾行などして取り締っていました。北辰社は誠実な牛乳を生産していると言う広告もありました。
 新富座で『皐月晴上野朝風』を上演していた年に山縣有朋とけんかし文部大臣を辞任した時期と重なるが何かあったのだろうか。
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明治事物起源 6 石井研堂著 123頁

2009年01月14日 | 福神漬
明治事物起源 6 石井研堂著 123頁
缶詰製造の始まり
明治2年版『西洋見聞録』に『ガラス器或いは錫器にいれ、防腐法を以ってこれを密封し云々』と書いてあるのは、今日の缶詰のこと言っている。
 缶詰製造の初めは、明治3年中、工部大学雇い教師米国人某が、東京市四谷区津の守に住んで、四季の果物類を缶詰として、自家用に供したのが初めとする。
 当時この外人に雇われ、缶詰製造を手伝いしたのは、千葉県行徳の山田箕之助という者てで同人の先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死)は、以前将軍家の漬物方を勤めたことあり、その家記によれば、寛永年間北条阿波守が天草征討の際、軍中に副食物の乏しきによって小握り飯には一切黄粉塩を用いたが、後品切れにて胡麻塩に改めたのも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かく切って味噌溜りに漬けて、溜り漬けと称し、軍用に提供した。
然るに文化年間、露人北海道に乱入したる頃、近藤重蔵、石狩において、右の溜漬けを醤油漬に改めたるより。これを紋別漬という云々とあり。
 かくて箕之助は、明治7年前記米人の缶詰法によって、この紋別漬を改良し、他の野菜を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を造りたる起源である。同年、三井物産社より、下谷池之端某店に委託し、紋別漬200個をハワイおよび米国に輸出したのを持って、缶詰輸出の初めとなる。

今では紋別漬なる漬物はない。下谷池之端某店とは酒悦のことだろうか。この缶詰の起源は日本缶詰史とはやや違うような気がする。日本の缶詰の初期は醤油漬の魚・肉・野菜等のものが多い。
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露伴と遊び 塩谷賛著

2009年01月13日 | 福神漬
露伴と遊び 塩谷賛著
根岸派(根岸党)を調べてゆくうちこの本が気になって借りる。一般に根岸派というと根岸に集まった俳人正岡子規らのこともあるが福神漬の関係するのは饗庭篁村(あえば こうそん)を中心とした人達のことである。
 根岸に集まった文学・芸術の遊び仲間で、彼等の明治時代より江戸のほうが住みよく暮らしよかったと言う気持ちが共通していた。
 上野山下三橋の忍川で『八笑人』などを読んで茶番の趣向は変えていたようである。

明治25年高崎にむかう汽車の中で幸堂得知が梨を剥き、富岡永洗(新聞の口絵画家)が竹の皮をひらいてのり巻きを、森田思軒(新聞記者・翻訳家)が福神漬をだして薦め、それを肴にまた酒となる。(55頁)
何気ない記述だがこの頃は福神漬は缶詰で旅行の時の副食として宣伝していた。
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今年の築地市場の停電

2009年01月12日 | 築地市場にて
今年の築地市場の停電
今年の築地市場の電気の安全点検の停電は1月25日と2月1日の日曜日です。ホンダのエンジンはパソコン使用可能な発電機で安心して使えます。だだレーザープリンタを稼動するだけの余力がありません。停電の市場は真っ暗です。

壊れた施設はいつも休市日には工事中。
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谷中コミュニティセンター

2009年01月11日 | 築地市場にて
谷中コミュニティセンター
根岸派のことが地元ではどの様な扱いになっているのか調べるため谷中コミュニティセンターへ行く。JR日暮里を降りて夕焼けだんだんで有名な谷中銀座の途中を曲がり、岡倉天心記念公園を過ぎると大きな芝生の広場がある。そこの脇の谷中コミュニティセンターに小さな図書室がある。
 早速係りの人の郷土資料の置いてある場所を聞く。すると何を調べているのですかと聞かれたので、『根岸派・根岸党』と答えたが解からないようだったので『岡倉天心関係』といってごまかした。どうも100年前の江戸懐旧趣味の一派はもう忘れられたか。
 この図書室の収穫は『 数奇屋町・同朋町』の場所が以前調べた松坂屋百貨店の南でなく池之端仲町に接していたところの地図があった。明治23年頃の数奇屋町はどのあたりだったのか。歌舞伎では上野山下に-近いところだが。
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会いたかった人 中野翠著2

2009年01月10日 | 福神漬
会いたかった人 中野翠著2
松廼屋露八(土肥庄次郎)

幕臣の子が吉原の遊郭の幇間となり、戊辰の戦争に参加した。明治になって再び幇間となって、宴席にその芸を披露した。当然顧客にはかって敵対した官軍側の人にも宴席で芸を見せた時もあっただろう。どんな心境であったのだろうか。
 この本によると三遊亭円朝の最初の妻、梶田楼のおいらん(愛人・あいひと・本名おとく)で後に福地桜痴のなじみとなったが露八と結婚したという。明治36年に亡くなった時、彼の遺言で松廼屋露八は彰義隊の戦士が眠る円通寺の葬られたと言う。幕臣の心を持ちつつ宴席に出ていたのだろう。

義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子だった榎本武揚は彰義隊同志の上野戦争を偲ぶ会で幇間を勤めた松廼屋露八を彰義隊同志土肥庄次郎として処遇したと言う。
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築地は5時には雪ならず

2009年01月09日 | 築地市場にて
雪ならず
未明から雪か雨の予報で築地の市場はいつもより荷が少ないようで順調。午前2時頃から雨が降り出したが気温が高く雨で終わりそう。このごろ天気予報のあたる確率が高く時間も正確なので信じるしかない。いつもの年のように正月明けて少し経つと暇になるので新年会シーズンとなる。
 5時には雪ならず、ほんのお湿り。
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不眠症の始まり

2009年01月08日 | 築地市場にて
不眠症の始まり
21年前から夜中に起きてテレビの電源を入れる習慣となってしまった。昭和天皇の病状が昭和63年夏頃から報道されて次第に悪化してゆくうちに一晩中TV放送が常態として行われた。
 63年末に向ってだんだん悪くなっていく病状が年末商材の手当てを悩ませた。クリスマス商戦が終わり年末商材が動く25日も無事すぎ開き直って正月を迎えた記憶がある。結局7日に亡くなったのだが予約してあった新年会もキャンセルした。このときは日本食品業界はバブル末期で耐えられた。季節商材は使い回しが難しく今なら連鎖倒産は避けられないだろう。
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平成もまる20年

2009年01月07日 | 築地市場にて
平成もまる20年
平成も満20年となれば、昭和も二昔となってもまだ歴史となるには早すぎて評価も出来ない。関東大震災と戦災によって東京は少なくとも二度の資料喪失をした。さらに敗戦と言うことで地域の言い伝え、食文化の継承と言うことも弱められた。
 三浦大根が昔の品種から今の青首大根に東京市場の主役となったのは昭和の終わり頃の10月末に来た台風によって三浦半島が被害を受けほんの数年で品種が切り替わった。昔の品種が消えると料理法も変化してゆくこともあるし、消えてゆく料理もある。このことは伝える手段が今のところ無い。写真や言葉で歯ごたえ・味・臭いなどまだ記録できない。三浦大根が青首の品種であったことしか知らない人が20歳となってしまった。昔のおでん用大根は練馬系の三浦大根で作ったもの方が昭和以前の味となる。
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会いたかった人 中野翠著

2009年01月06日 | 福神漬
会いたかった人 中野翠著
内田魯庵から『会いたかった人』 の本にたどりついた。著者によると魯庵は明治期の日本最大の『 読書人』 ということだがどうでも良いことで同じ本に今調べている福神漬の関係者が比較的多く記述されているので驚いた。樋口一葉・福地桜痴・内田魯庵ときた。最後のところで中野みわという人のところで『もしかして、明治以降の日本文学史は官軍側と左幕側の二つの血の流れが文学的な体質の違いとなって、えんえんと、そして隠然と戊辰戦争が続いているのではないか云々』と書いてあった。
 福神漬の創製と販売の拡販の過程がどうも戊辰戦争、特に上野戦争のこだわりが引きずっていていることが最近感じてきた。
 中野翠女史は旧幕臣の家系でからどうも敗者やマイナーな人、奇人変人をどちらかと書いているがこれらは上野戦争で負けて浅草あたりでたむろしていた明治文化人と似ている。このような人達を親にしていた人は先の戦争でどちらかというと戦争には非協力的で薩長政権の権力の胡散臭さを知っていたのではないのだろうか。
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築地の新年

2009年01月05日 | 築地市場にて
築地の新年
築地の新年はマグロのセリ価格でいつも占える。価格に対してどの様なコメントをするかが問題なのである。移転の問題は築地市場長が本日の賀詞交換会に欠席が決まっていて何も進展がないのが決まっているので後は景気の問題だけでどの様な話になるのでしょうか。
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花神 司馬遼太郎著から

2009年01月04日 | 福神漬
花神 司馬遼太郎著から
司馬遼太郎全集の31巻月報に5月15日の上野戦争で焼失した地域の地図があった。それによると焼失した地域の大部分は今の上野広小路の周辺が多かった。その中で守田宝丹の店は今とほぼ同じところに在ったことがわかる。
 雁鍋という料理屋は不忍池から流れ出した川が上野山下と広小路を分ける形となり、三橋が掛かっていた脇にあった。不忍池は今よりはるかに大きく黒門が寛永寺攻略に鍵となるのが地図上でも理解できる。
 官軍の大村益次郎は彰義隊をキレイに敗北させる作戦を立てたと思われる。一日で終わらせ、火災が発生しても梅雨時なら大火事にならないこと、逃げ道・転戦先をのこし徹底抗戦させないように作戦を立てた。この作戦に烏合の衆でもあった彰義隊は敗北した。江戸庶民は地元の人を除き新政府になびいていった戦争でもあった。
 上野の山が荒廃し、公園化するまで山下の繁華街は苦労した時だった。以前繁盛していた時を思い出して、新富座で上野戦争の歌舞伎に上演されるとその応援には力が入っていた。
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福神漬のなぞが一つ解けた

2009年01月03日 | 福神漬
一つの福神漬のなぞが解けた
明治28年9月30日資料作成
大倉喜八郎が福神漬300樽を寄贈している。
『留守第4師団より大倉組よりの献納福神漬の件』
日清戦争が終わったのが明治28年4月だがどうして留守部隊だった大阪の第四師団へ大倉喜八郎の大倉組が福神漬を献納したのだかわからなかった。
 『彰義隊』吉村昭著を正月休みに読んでいたら、この事情がわかってきた。この当時の直前大阪第四師団の師団長が北白川宮能久親王で明治26年から赴任していた。北白川宮能久親王は上野戦争の時は輪王寺宮であった。日清戦争が始まり明治28年1月15日に有栖川熾仁親王が亡くなると兄の小松宮が直ちに参謀本部長となり、弟の北白川宮は第四師団長を免ぜられ近衛師団長となり広島に赴任した。5日後、日清は休戦した(3月15日)。

有栖川熾仁親王は戊辰戦争時、新政府軍の東征大総督で駿府で輪王寺宮と会見し、後に上野で戦った。


大倉喜八郎は上野戦争の時。官軍が上野の山に立てこもっていた彰義隊を攻撃する前夜に大倉は突然、彰義隊に連行された。官軍に鉄砲を売っていたからだ。このエピソードがあるので北白川殿下が輪王寺宮であったことは当然知っていた。
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一年の計

2009年01月02日 | 築地市場にて
一年の計
一年の計画をたてるのにその基礎となる統計が意図的または無意識にある数字だけ強調され、その数字によって日本人が暴走する。
 日本列島改造論によって、日本中にリゾート地が計画されたが、日本企業は労働者に長期休暇を与えることは少なく、特に下請け等の会社(日本の会社の大部分を占める)はコストの上昇する休暇より残業で調整することで社員数の増大を抑えた。従って円高になって海外旅行と価格差が出来ると国内のリゾートは休暇の増大によって恩恵を受けるはずが中小企業の従業員は長期休暇など取れるはずがなく滞在型の施設は統計の予想のように延びなかった。また一部の長期休暇が取れる労働者は海外観光地に行き余暇時間の増大部分を取られてしまった。しかし日本統計はそんなことを計算に入れてなく多くの借金で作られた施設はこの20年で全てといってよく破綻した(唯一の例外は東京デズニーランド)。
 いま総悲観の2009年だが生きていれば消費が発生し、需要が出る。過度の不況感が消費を抑制し、又需要が少なくなる。
 とにかく2009年が始まった。
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