『やんちゃジジイ・ゆうちゃん』のイカすセカンドライフ

我儘で『やんちゃ』な爺さんの目標は、
周りに笑顔を振りまいて、楽しくセカンドライフを生きる事。

若かりし思い出の場所

2008年06月10日 | Weblog
今日は長女の高校で開催された合唱コンクールを
聞きに行くために会社はお休み。
どうせ仕事なんか無いから気楽なもの。

場所は中野区のゼロ大ホール。http://www.nices.jp/facility/zero/syohall.html
東館は大ホールで、別棟の西館には小ホールがある。

東館のある場所は昔、中野公会堂があった場所。
映画館大きくしたような舞台の幅も奥行きも、
中途半端で使いにくかったホールだった。
そこが数年前に建て替えられて、素晴らしいホールに変身していた。

隣の西館はかつては中野文化会館と呼ばれていて、
今は東館と運営が一緒になっている。
西館は僕が高校生の時に出来た旧中野文化会館がそのまま使われている。

その当時は、今のように小さなライブハウスなんて都内に殆ど無くて、
もっぱらアマチュアミュージシャンがこういった小規模なホールでコンサートを開いていた。
都内では、青山VAN99、麻布公会堂、銀座ガスホール、ヤマハホール、
水道橋労音会館、目黒区民センター、新宿安田生命ホール、四谷公会堂
といったところかな?
500人程度のホールが僕らアマチュアの主な演奏活動の場所となっていた。

実はかつて、僕が主催するアマチュアコンサートを、
ここ旧中野文化会館で開いた事がある。
客席数550。その当時、いくらの入場料だったか?覚えていないが
満員にしてやっと採算が取れる程度の利用料金だった。

そしてこの場所で、今の相方Charlieと別のバンドで共演したのが僕らの歴史の始まり。
どこぞのコンサートで聴いたCharlieの曲が気に入って、僕が出演依頼したのだった。
今でもライブで演奏している「灰色の空だから」と云う曲がそのお気に入り曲で
アレンジが3~4回変わっているとは言え、実に30年以上も唄い続けている事になる。

今考えてみれば、僕等のコンサートはいつも最低でも350人は入っていたから、
その当時の僕らの観客動員力は、まんざらでもなかった気もする。
一段高い舞台のうえから、ピンスポットを浴びて唄うのが快感だった。
あの頃は、今よりも音楽を通じて何かをやろうという気持ちを持った
エネルギッシュな若者が多かった気がする。

実際、僕らはアマチュア相手にコンサートの企画集団を作って、チケット作りや
チラシ、プログラムまで作っていたし、そういった印刷物に載せる
スポンサーを探してくるのも、音楽活動の一環だった。

それが高じて、音楽をやるよりライブハウスを開いてみたり
音響・照明のプロフェッショナルになっていった
僕のような者が多かった。
実際、僕らのやっていた「三ノ輪モンド」は、東京では有名だったし
故高田渡さんなど、名のあるミュージシャンも多数出演してくれていたのと、
ライブハウスのスタッフも元々、ミュージシャンを目指していた連中が殆どだったので
年末の忘年会でのセッションは大騒ぎ。
それぞれが演奏して、さながらオールナイトコンサートみたいなイベントにもなっていた。
今日は懐かしい場所に行って、そんな若い頃の事を思い出してしまった。

合唱コンクールの方は、合唱部に入っているクラスはやっぱり締まっていた。
でも、どのクラスもなかなかコーラスがしっかり出来ていたので感心しちゃった。
まぁ、うちの子は歌謡曲とか聴かないから唄を歌っている所を目にしたことが無い。
家の中で、いつも声を上げて歌っているのは僕だけだからなぁ・・・・

死ぬまでにもう一度、満員のホールのお客さんの前で、ピンスポットを浴びて
唄ってみたいなぁ。それも、タイバンじゃなく、自分達だけで・・・・・
金銭的には可能だけれど、それじゃつまらない。
僕等の若い頃のエネルギーは、今の子には無いだろうな・・・・・
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