ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

平沢先生

2017-12-29 22:52:47 | ひと
今日の新潟日報紙の地方版「中越」の記事に、写真入りで、平沢健一先生の死亡記事が載っていた。


ご自身でも短歌を詠まれていたということは知らなかったが、私は平沢先生が現職のときに、大きく言って2度ほどご指導を受けたことがある。

1度目は、25年ほど前にある研修会に参加したとき、先生が指導者だったことがある。
その時受けたお話に感銘を受けたのだが、内容的には、受け手の気持ちを考えるということがあったと記憶している。
受け手の気持ちを考えると、提出文書を送る時も、面倒でも送り状をつけるべきだという話もあった。以降、私は簡単でも送り状を、最低でも付箋を付けて送るように努めてきたのは、先生の教えに説得力があったからである。

2度目は、20年ほど前のことになる。
指導を受けたというよりも、大きな刺激を受けたというべきか。
平沢先生は、小学校や中学校の校長を務めたのだが、そのいずれでも学校の授業に、積極的に保護者や地域の方々をゲストティーチャーとして招いたのだった。
いや、招くと言うより、当たり前の講師として、学校の子どもたちの学習に参加してもらっていたのだった。
今でこそ当たり前になっているが、その当時は、本が出るほど画期的なことであった。
小学校だけでなく、中学校でもそれを行い、外部に公開したりした。
すでに、子どもたちの個に応じるには、学校の教職員には指導の限界がある、ということがよく言われていた時であった。
だから、身近な外部の人材を呼び協力を仰ぐ、という手法は、文字通り開かれた学校づくりに欠かせないのだ、ということを実践から教えていただいた気がした。
「私も、そんな学校づくりに努力したいと思います。」と、平沢先生に話した記憶がある。

また、勤務時間中に、時間休をとって私的かつ多少利己的なお願いに訪れた後輩同業者たちに、「帰れ!お前たちのような者たちがいるから、学校の先生が悪く言われるのだ。勤務時間中は、教育に専念しろ。勤務先の子どもたちをしっかりみろ。」と怒鳴った、という逸話もあった。

平沢先生が宮柊二記念館の元館長であったとしても、記事によると、館長を務めていたのは、2000年から2010年までの10年間である。
しかも、それから7年余りもたっているのに、こうしてその死去が惜しまれて記事になるというのは、その功績と人柄が立派だったからにほかならないであろう。
ご冥福をお祈りしたい。
コメント
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