定年を迎えてから、この後をどう生きていくかと模索しているわけでは決してないのだが、定年を扱っている読み物などが、よく目に留まる。
いつぞやここで書いた「三人のおっさん」も、定年後のおっさんたちの町内での活躍(?)を描いたものだった。
今回も、本屋で、「定年ゴジラ」(重松清;講談社文庫)という書名を見つけて気になった。
主役は、東京の郊外で開発から30年もたつニュータウンに住む、定年を迎えて過ごし方がよくわからない還暦男性。
何やら気になって、読んでみたくなった。
単行本で出版されたのが1998年の3月とのことで、もう20年近くも前になってしまう。
ならば、と、その本を見つけた書店で買わないで、ブックオフで108円で買うのが、私らしいと言えば私らしい。
20年も前と言うと、当時私は40代に足を突っ込んだばかりだった。
作者は…というと、以前ここで「その日のまえに」について書いたが、その作者である重松清。
氏は、私より6歳も年下である。
…ということは、この作品を書いたのは、なんと彼が30代だった頃になる。
それなのに、よくわかるなあ、と思わせる還暦男性の心情があちこちに登場する。
例えば、物語が全ページ数の半分以上が過ぎていった辺りで、次のような表現が登場する。
山崎さんはもう駅の改札に駆け込むことはない。掲示板の観光案内のポスターを、いまならゆっくりと眺められる。線路脇の切り通しの斜面に小さな花壇がつくられていることを知ったのも、つい最近だ。忙しさに紛れていままで気づかなかったものがたくさんある。だが、それをひとつずつ見つけ出していくごとに、逆に何かが視界から消え失せてしまう。そんな気もする。
…この感覚は、今の私が結構味わっている感覚である。
当時30代でありながら、このような60歳男性の心情を表現できるなんて、さすが作家だなあと感心したりもした。
家族と自分の生きてきた歴史と現在とが交錯しながら、主役の山崎さんの周囲に様々な人物が登場し、物語が展開されていた。
痛快だった「三匹のおっさん」に比べて、この「定年ゴジラ」は悲哀があったり希望があったりして、心の浮き沈みがある。
でも、それこそが、今まで迷いながらも懸命に生きてきた証拠なのだなあ、と納得しながら読んでいたのであった。