2/1明治十年、西郷の斡旋を期待し砂糖自由売買を願う奄美の島民55人は鹿児島に着くと全員投獄、35人が西南戦争に従軍させられ6人が戦死、無事帰帰還者半数以下。彼らが苦しめられた、藩政時代の独占搾取を引き継ぐ県の大島独占商社は西郷の承諾と指導によるものだった事は知らなかった。(続く
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年1月30日
↑改定『名瀬市誌』一巻 P557 第2節 明治前期経済をめぐって --奄美経済における廃藩置県と民権運動
この第5章の 第2節と第3節はこの巻の白眉だが、注意深い想像力が要求されるところだ。陳情団については、役人勢力の強い名瀬では、役人になれない不平組(勝手ビキ=人民ビキ)の運動とみなす風があり、その他の地方とは受け取り方がちがう。現在でも十分にありそうなことである。”島かわいそう”の単純な上からの見方は決して許さない複雑さがある。
2/2一方で西郷叛乱の動きに冷ややかな島出身の”志士”達もいた。叛乱勃発前に東京や島に脱出した者も。中でも烏丸一郎は劇的。明治元年東大に奉職、明治五年熊本鎮台医官。官軍に協力。彼の活躍は吉川英治『日本名婦伝』で検索し読める。青空文庫も。参考 改定『名瀬市誌』一巻、『碑のある風景』
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年1月30日
烏丸一郎は鹿児島出身ともいわれたが、のち史家の研究で奄美大島赤木名の出身とわかった。
島出身者が温情に囚われず、新政府に期待し、行動したのは、それだけ視野が広かったということだろうか。
また陳情団の人の中にも西郷の恩に報いるため自らすすんで従軍した者もいたといわれる。無事帰還した人たちは、時代の変化を目の当たりにして、これからは「学問ど」と島の人たちに口々に話した。
===
吉川英治『日本名婦伝』谷 干城夫人
谷 干城(たに・たてき/かんじょう)土佐藩士、軍人
熊本鎮台司令長官
西南戦争では、熊本城攻防戦を指揮した。
『日本名婦伝』谷 干城夫人 青空文庫より
四
川尻方面の動静を探るために、三等出仕の烏丸(からすまる)一郎とふたりで、昨日から敵のなかへ深く這入って行ったが、烏丸が薩軍の哨兵しょうへいに発見されて追われたため、彼はひとりとなって辛からくも復命に帰って来たのであった・・・・