市来四郎への斉彬の命「琉球・奄美大島、引いては本土の山川港を外国貿易場とし、琉球名義で仏から蒸気船や小銃製造機を買い、琉球人と薩摩人から藩費で英仏米に留学生を送る」等の計画は海音寺「西郷隆盛3巻に詳しく列藩騒動(上)で検索読める。計画は斉彬急死で頓挫、琉球王府政変(牧志恩河事件へ
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年1月22日
ほかに台湾の土地を中国から借り、渡唐船の中継地を設置する、福州の琉球館を拡張し渡唐船の数をふやす、日本の旧式銃を中国に売り込む。など計7条目。
@amami_kaihu_so ↑この計画は安政4年秋。幕府は通商、開港など反対が大方で日米修好通商条約は安政5年6月。斉彬の計画に「琉球解放」の目論見を観る説もある。いかに斉彬が時勢の先を読んでいたか。斉彬は引兵東上訓練中急死。西郷はこれを終生父・斉興や異母弟・久光らの陰謀と見
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年1月23日
薩摩藩士・市来四郎の後年の筆録『石室秘稿』には、斉彬は安政4年8月19日、市来と琉球代官の高橋縫殿(ぬい)を召して、琉球側の説得を命じた。
※「琉球解放」は、土地のやせた農業のふるわぬ琉球を薩摩が征服した理由はただ一つ貿易の利がほしかっただけ、計画が実現すればその理由がなくなるという推察だが、それだけではやや論拠薄弱に思えるが、斉彬にはもっと様々な事情が見えていたのだろうか。
この計画については、海音寺潮五郎『西郷隆盛』第三巻 前巻までの拾遺
「島津斉彬の急死に関して」 に詳しく説明されています。
西郷が、斉彬毒殺の疑いを終世信じていたであろうことは、西郷の伝記としては根本にかんするものであるからと前置きされている。
安政5年(1858年)5月、井伊直弼が大老となり、
6月に日米修好通商条約調印し、
将軍継嗣問題では、斉彬ら一橋慶喜擁立派の運動は失敗し世子は徳川慶福(家茂)に決まった。
7月には、井伊の一橋派への弾圧が始まる。(広義の安政の大獄)
西郷はこの年6月に、これらの江戸・京都情勢を斉彬に報告するべく鹿児島へ帰って、10日ほどの滞在で再び中央へ。
西郷の帰着後2,3日で琉球で交渉中の市来から報告書が届いている。
斉彬は契約を急げと指示している。
引兵東上には軍艦が必要だ。
斉彬が鹿児島城下天保山で薩軍の猛訓練中に急死したのは7月16日であった。
7月19日、斉彬の弟・久光の子・忠義が家督相続し、久光は後見人となったが、
藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。
亡兄・斉彬の遺志を継ぐとした公武合体運動推進のための久光の卒兵上京は、文久2年(1862年)であった(3月16日鹿児島発、4月16日京都着 wiki )。
一挙に4年も時代が進んだが、西郷はこのとき3年半の潜居を経て奄美大島から召喚されている。(しかし西郷は久光とそりが合わず、半年後には、久光の命令違反(同士の誤解)で再び徳之島、沖永良部島へ遠島となる)
話は前後したが安政5年(1858年)に話を戻すと、
7月京都で斉彬の訃報を聞いた西郷は殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。近衛家から尊王僧月照の保護を依頼された西郷だったが幕府の追及を恐れた藩当局の方針は固く、
11月、月照とともに入水、西郷一人蘇生し、幕府の目から隠すために藩は西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させる。
西郷が奄美大島龍郷に着いたのは翌年(安政6年)1月のことだった。
奄美大島龍郷町龍郷
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年1月19日
★西郷南洲謫居跡付近(去年大みそかに撮影)
県道81号線
謫居跡の地図 西郷南洲謫居跡で検索すると地図がでます。
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