「東西迷(どちはぐれ)」といふ珍しい狂言を観たくて、横浜能楽堂の「第七回 東次郎 家伝十ニ番」公演に出かける。
江戸時代初期の大藏流家元•大藏虎明が遺した台本をもとに、当代の山本東次郎が創意工夫を加えて平成十八年に復曲した一人舞台の狂言。
初めに上演された「鍋八撥(なべやつばち)」は、大らかなプラス思考で目出度く締めくくる脇狂言、思ひがけず大きな“拾ひ物”をいたしてござる。
『なにやら面白ふて、よき一日であった』──
江戸時代初期の大藏流家元•大藏虎明が遺した台本をもとに、当代の山本東次郎が創意工夫を加えて平成十八年に復曲した一人舞台の狂言。
高額なお布施が手に入る大法會と、檀家から御馳走が振る舞はれる常斎と予定が被ってしまひ、さてどちらに行くべきかと大ひに迷ってゐるうちに時を逸し、結局どちらにもありつけなかった貧僧の悲喜劇。
どちらにもはぐれた──だから、「どちはぐれ」。
しかし本當の見せ場は、落胆して寺に戻った僧が、目先の利に迷ったことを恥じ、「今日は何もしなかったのだ」と次第に自力で悟っていく過程を独白で紡ひでいく場面にあると、私は観る。
夕焼け空を愛で、入相の鐘をつき、
『なにやら面白ふて、よき一日であった』
と静かに独りごちて、静かに退場する──
俗世の俗欲に本能のまま翻弄される僧を写し出すことの多い狂言におゐて、これは特異な一篇であり、それだけに人生と藝の両輪を極めた藝能者でなくては、今回のやうに観てゐる側にも清々しい気持ちを与へることは出来ない。
シテのみでアドのいない独り狂言の演じ方から、決して助演者を求めない我が現代手猿樂の構成へ“何か”を得られたら、といふ思ひで樂しみにしてゐた舞台だったが、いやはや深い“御縁”にあやかりて候。
初めに上演された「鍋八撥(なべやつばち)」は、大らかなプラス思考で目出度く締めくくる脇狂言、思ひがけず大きな“拾ひ物”をいたしてござる。
帰り道、西の空には綺麗な夕焼けが広がる。
『なにやら面白ふて、よき一日であった』──
俗世で右往左往する私など、
その境地はまだまだ先のやうだ。