(なぜ自分が殺されなければならないのかもわからないまま、ツールスレン収容所で死んでいった大勢の人々 “flickr”より By faeez)
カンボジア捜査当局は12日、旧ポト・ポル政権ナンバー3だったイエン・サリ元外務担当副首相(78)と妻のイエン・チリト元社会問題相(75)を首都プノンペンの自宅で逮捕しました。
イエン・サリ元副首相には人道に対する罪と戦争犯罪、イエン・チリト元社会問題相は人道に対する罪の容疑がかけられています。
カンボジアの旧ポル・ポト政権時代の大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷については、拷問で悪名高い政治犯収容所のカン・ケク・イウ元所長(通称ドッチ)が7月末拘束された際に当ブログでも取り上げました。
(8/1 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070801 )
1975-79年のポル・ポト政権下では百数十万人(正確なところは不明)が死亡したり処刑されたといわれています。
ドッチに続いて、政権ナンバー2だったヌオン・チェア元カンボジア人民代表議会議長が9月身柄拘束されていました。
今後、キュー・サムファン元国家幹部会議長も拘束される見通しで、虐殺の真相解明に向けた追求が本格化する予定です。
(追記「カンボジア政府は14日、旧ポル・ポト政権のキュー・サムファン元国家幹部会議長(76)の身柄を同国西部パイリンの自宅からプノンペンに移送する作業に着手した。元議長は13日、高血圧などで体調が悪化したといい、ヘリコプターでプノンペンに移送後、治療を受ける。ポル・ポト政権の元最高幹部を裁く特別法廷は、元議長の健康に問題がなければ戦争犯罪や人道に対する罪で逮捕するとみられる。【11月14日 時事】)
なぜあのような国民の4人に1人が殺されるという異常な大量虐殺が行われたのか?
政権の中枢にいた者はみな自らの責任をうやむやにして、他人に転嫁しようとしています。
以下、「ポル・ポト<革命>史」(山田寛著)から、関係者の発言を抜粋します。
ポル・ポト元首相(1998年死亡)は生前にインタビューで語っています。
「自分は民衆を殺すためではなく、闘争をしに生まれてきた。我々が闘争したからカンボジアはベトナムに呑み込まれずにすんだ。そのことに非常に満足している。我々の運動は間違いも犯したが、そんな間違いは世界中のどんな運動にもある。数百万人が死んだなんて誇張にすぎない。ベトナムの手先がいたるところに潜り込んでいた。我々は自分の身を守らなければならなかった。」
「自分はトップの人間で、大きな問題の決定しか行わなかったから、ツールスレン(ドッチが所長をしていた政治犯収容所)など聞いたこともなかった。あれはベトナムが作った博物館だ。」
タ・モク(元軍総参謀長 後年ポル・ポトと袂を分かち、ポル・ポトを拘束、最高権力者となる。その残忍な性格から“The Butcher(屋)”の異名を持つ。昨年死亡)の生前のインタビュー。
「アメリカは数百万人死んだと言うが実際は数十万人だろう。ポル・ポトが人道に反する罪を犯したのは明らかだ。ツールスレンもポル・ポトだけの責任。彼の手は血にまみれているのだ。」
ヌオン・チェア(共産党副書記長 ポル・ポトに次ぐナンバー2 拘束中)の98年投降時のコメント。
「人命ばかりでなく、内戦で生命を落とした動物たちにも申し訳なかったと思っている。」
(国民の命などは動物と同程度の価値しかなかったのか?)
ドッチ(アウシュビッツとも並び称されるツールスレン政治犯収容所所長。行方がわからなくなっていたが、96年に発見されたときはキリスト教の洗礼を受けて、タイ国境近い森の中で、国連・アメリカ民間救援組織のバックアップを受けながら難民救援活動を行っていた。関係者の中で唯一全面的に自分の非を認めている。拘束中)
「私の罪は、あの頃神でなく共産主義に仕えたことだ。殺戮の過去を大変後悔している。」
「ポル・ポトは『党内の敵を見つけ出し、党と国を防衛しなければならない』と言い、その仕事をヌオン・チェアに任せた。ヌオン・チェアこそ殺戮の主役だった。キュー・サムファンなど筆記係にすぎなかった。」
「まず裁判にかけるべきはタ・モクとヌオン・チェア。ポル・ポトとソン・セン(元国防担当副首相)が生きていたら彼らもだ。」
今回逮捕されたイエン・サリ(副首相 党内ナンバー3 96年にポル・ポト派を離脱、新政権に投降して国王の恩赦を受けた。その後のポル・ポト派投降のさきがけとなった。投降後はバイリンのルビー採掘の権益を握り優雅な余生を送っていたが、近年は心臓疾患を患い、治療のため隣国タイのバンコクを頻繁に訪れている。)
「私は誰も処刑していないし、その指示もしていない。ポル・ポト1人で大小すべての決定を行っていたが、虐殺に関しては、ヌオン・チェアを長とする秘密公安委員会が実権を行使した。国民虐殺の責任はポル・ポトとその取り巻きのヌオン・チェア、ソン・セン、ユン・ヤット(ソン・セン夫人)、タ・モクにある。この5人こそ死刑に値する。」
「私は国民に自由を与えようとして、何度もポル・ポトと対立した。ポル・ポトは93年に私を暗殺しようとした。」
(本当に対立していたら、なぜ活動中に粛清されなかったのか?)
ケ・ポク(党序列13番目 軍副司令官 東部地域の大粛清の実行責任者で、無類の残忍さを発揮 98年帰順 その後政府軍の将軍に任じられ02年死亡)
「(政権をとるまでの)70~75年のポル・ポトの指導は正しかった。住民の支持を受けた。国際社会の支持も受けた。だからこそアメリカに打ち勝つことができた。」
「だが(政権をとった後)ポル・ポトは他国に負けない発展を目指した。そのために国民の命を犠牲にしたのはポル・ポトだ。」
キュー・サムファン(元国家幹部会議長 政権の“表の顔”として活動)
04年に自伝を出版。その内容は「私は知らなかった。」というもの。
責任を認めたドッチ以外は見事な責任のなすりあい、あるいは「ポル・ポトが悪い」という“死人に口なし”です。
なお、今回逮捕されたイエン・サリ夫人のイエン・チリトは、革命前カンボジアで始めての英語教育校を設立、パリ留学ではシェークスピア文学を研究した外国文化に造詣が深い経歴を持ちますが、彼女が夫ともにかかわった政権は徹底的に外国文化、というより自国も含め文化全般を弾圧、文化人の経歴を持っている、英語を知っているというだけで殺されるような社会をつくりました。
フン・セン現カンボジア首相はかつて「ポル・ポト夫妻、イエン・サリ夫妻の四人組が真の実力者だった。二人の妻はキュー・サムファンなどよりよほど力があった。チリト夫人の夫への影響力はすこぶる大きく、サリやサムファンが出す文書の多くが彼女によって書かれていた。二人の妻は完全な毛沢東主義者だった。」と語っています。
チリトの姉ポナリーはポト・ポルの最初の夫人(後年離婚 03年死亡)です。
ポナリーについては「女性的魅力に欠けていたため、その鬱憤が後年の残酷政治に繋がった」との説もあります。また「政権をとる前の70年代前半に精神病を患っていた」「ポナリー夫人は大量虐殺や残虐政治をやめさせたいと思っていたが、夫のポル・ポトはとりあわなかった。それが別居の原因だった。」などの話もあります。
多くの話同様、その真偽は不明です。
ポナリー・チリト姉妹の父は裁判官で、後に王女の1人と出奔するほど王族と親しい関係にありました。
シアヌーク国王は姉妹の子供時代をよく知っていたそうです。
革命政権の中枢にいた者達には明瞭な共通事項があります。
地主・資産家・裁判官などのブルジョア階級出身、シソワット高校卒業、フランス留学、教員の経験があるという点です。
イエン・サリ、チリト、ポナリー、キュー・サムファン、はこの全てに該当しますし、ポル・ポトやソン・センも高校を除くとフランス留学など他の事項には該当します。
留学経験のないヌオン・チェアやドッチは例外的な存在です。
これほど教員経験者がそろった政権が教育を殆ど否定する(中学校は全く存在せず、小学校もごく一部、1日30分ほど革命の歌やスローガンを教える程度)というのも不思議と言うべきか、経験の反動としての結果だったのか・・・
これほど留学経験者がそろった政権が、外国の影響を一切排除しようとしたのは・・・・
彼らの農業などとは無縁の出自が、政権の“超観念的な”現実無視の農業重視政策、都市否定政策を生み出したのでしょうか。
都市・文化・貨幣を否定し、教育も行わず、家族も否定して集団食事を導入し、農業だけに実現不可能な期待をかけ、国民を“使い捨て”労働力として死においやり、西洋医療を否定して字も読めない子供を“裸足の医師”にしたて、大人を信用せずに子供を兵士にしたて、あらゆる者を“ベトナムの手先”として粛清し・・・現在の私たちの価値観からすると理解不能な異様な社会ですが、恐らくポル・ポト等は本当に信じていたのでしょう。
自分たちが“アメリカ、ロン・ノル旧政権、ベトナムの力をはねのけ、いまだ中国すら実現していない偉大な真に新しい社会を作りつつあるのだ”という妄想を。
今日を生き残るのに精一杯の国民からの批判などありようもないですから、ブレーキもかかりません。
また、彼らが手本にした中国は文化大革命およびその後の混乱期であり、農村への下放とか造反有利といった既存の価値・概念の否定の風潮が広まっており、ポル・ポトが目指した原始共産制的な社会は当時の中国社会を更に純化したような社会にも思えます。
また、中国では文化大革命に先立つ大躍進政策では2000万人もの餓死者を出したとも言われていますが、革命の遂行のためには“多少”の犠牲は止むを得ない、あるいはスターリンの粛清にみられるような革命を守るためには敵は殲滅する必要がある・・・そのような“人命軽視”の風潮が当時の共産主義社会にはあったのではないでしょうか?
更に、カンボジアに歴史的に存在する隣国ベトナムへの敵愾心が、「ベトナムの手先」というレッテル張り、大粛清につながっていく。
そんな、実社会経験の乏しいエリート達の頭の中で膨れ上がる妄想、圧倒的な暴力システムによる批判の抹殺、共産主義社会にみられた人命軽視の風潮、ベトナムへの敵愾心・・・それらが“4人に1人が殺される”という異常な社会を生んだようにも思えます。
フン・セン首相は特別法廷に消極的だと聞きます。
当然でしょう。彼やヘン・サムリン等自身がかつてはクメール・ルージュの一員であり、ベトナムとの関係を疑われそうになってベトナムに逃げた東部地方幹部だったのですから、いまさら昔の話は蒸し返したくないのでしょう。
自分たちに降りかかる問題が出かねませんから。
また、政治的にみても、いちおう安定した現状をつついてことさらに問題をおこさなくても・・・という思いもあるでしょう。バイリンにはまだ旧ポル・ポトの一派が多く住んでいます。
もはや、政権中枢にいた多くが死亡し、生き残っている者も高齢・病気で、報復のための裁判は成立しません。
ただ、カンボジア国内ですらポル・ポト以後に生まれた若者が増え、ポル・ポト時代の記憶が風化していくなかで、この裁判によって惨劇の真実を明らかにしておくことは将来をあやまたないための灯りともなりますし、なにより死んでいった大勢の人々に対する残されたものの責務であると考えます。