(マル印で囲んだあたりがペドラ・ブランカ島 実際は地図にも表記できない小さな島です)
【無人島「ペドラ・ブランカ島」 2008年5月 シンガポール領とする国際司法裁判所(ICJ)判断】
日本の尖閣諸島・竹島問題に限らず、多くの国が隣国と領有権を争う問題を抱えており、合理的判断の有無にかかわらず、その解決・譲歩はナショナリズムと絡んで非常に困難です。ときに国内の政争とも絡んでくることも。
マレーシアは隣国シンガポールと無人島「ペドラ・ブランカ島」(面積はサッカー場の半分ほどと極めて小さく、地図にも表示できないぐらい)をめぐって争ってきました。「過去形」なのは、領有権についてはシンガポールの主張が認められる形で国際司法裁判所(ICJ)の判断が確定しているからです。
しかし、ここにきて今度はマレーシア国内の「アンワル首相vs.マハティール元首相」という因縁の対決の形で再燃しています。
*****ペドラ・ブランカ島*****
ペドラ・ブランカ島は、マレー半島南部ジョホールの7.7カイリ沖、南シナ海から半島東岸に沿ってシンガポール海峡に入る位置にある花こう岩性の無人島。面積はサッカー場の半分ほどと小さいが、その位置から戦略的に重要な意味を持ち、領海問題にも影響を及ぼすとみなされてきた。【2008年5月23日 AFP】
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****マレー半島の小島、領有権はシンガポールに 28年間の論争に終止符****
オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は(2008年5月)23日、シンガポールとマレーシアが領有権を争っていたペドラ・ブランカ島(Pedra Branca、マレーシア名はバトゥプテ島、Pulau Batu Puteh)について、シンガポールに帰属するとの判断を下し、28年間にわたる論争に終止符を打った。(中略)
ペドラ・ブランカ島の領有権はそもそもマレーシア側が主張していた。しかし、シンガポール側は130年前から同島のホースバー灯台を管理しており、それに対してマレーシアは何の申し立てもしていなかったことから、暗黙のうちに領有権がシンガポールに移転していたと反論していた。
ICJのAwn Shawkat Al-Khasawneh裁判官は「当法廷は12対4で、1980年までにペドラ・ブランカ島の領有権はシンガポールに移転されていたとみなし、同国に帰属すると判断するに至った」と述べた。
またICJは、島周辺に2つある岩場のうちMiddle Rocksについてはマレーシアに領有権があることを認めた。もう1つの岩場South Ledgeはちょうど領海が重なるところに位置することから、あらためていずれの国に帰属するか判断するとした。
論争の発端は1980年、ペドラ・ブランカ島を自国領土として記載したマレーシアの新しい地図にシンガポールが異議を唱えたことにある。以後、両国間で数年にわたり協議が行われてきたが解決には至らず、国連(UN)の最高司法機関であるICJに判断を委ねることになった。
1965年にマレーシアからシンガポールが分離独立して以来、両国関係は領有権争い以外でもしばしば悪化している。1965年当時には、島の領有権は定められていなかった。
23日のICJの判断について、マレーシア、シンガポールともに2国間関係に影響を及ぼすものではないとコメントしている。【同上】
ペドラ・ブランカ島の領有権はそもそもマレーシア側が主張していた。しかし、シンガポール側は130年前から同島のホースバー灯台を管理しており、それに対してマレーシアは何の申し立てもしていなかったことから、暗黙のうちに領有権がシンガポールに移転していたと反論していた。
ICJのAwn Shawkat Al-Khasawneh裁判官は「当法廷は12対4で、1980年までにペドラ・ブランカ島の領有権はシンガポールに移転されていたとみなし、同国に帰属すると判断するに至った」と述べた。
またICJは、島周辺に2つある岩場のうちMiddle Rocksについてはマレーシアに領有権があることを認めた。もう1つの岩場South Ledgeはちょうど領海が重なるところに位置することから、あらためていずれの国に帰属するか判断するとした。
論争の発端は1980年、ペドラ・ブランカ島を自国領土として記載したマレーシアの新しい地図にシンガポールが異議を唱えたことにある。以後、両国間で数年にわたり協議が行われてきたが解決には至らず、国連(UN)の最高司法機関であるICJに判断を委ねることになった。
1965年にマレーシアからシンガポールが分離独立して以来、両国関係は領有権争い以外でもしばしば悪化している。1965年当時には、島の領有権は定められていなかった。
23日のICJの判断について、マレーシア、シンガポールともに2国間関係に影響を及ぼすものではないとコメントしている。【同上】
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【かつてはマレーシアを追放されたシンガポール その後世界的金融・港湾都市に変貌】
もとより(マレー人優遇政策をとる)マレーシアと(華人主体の)シンガポールの関係は微妙。1965年にマレーシアから「追放」される形で「不本意」な分離独立はするも、小さく天然資源の不足に悩み、生き残れないと言われていました。“独立を国民に伝えるテレビ演説で(シンガポール指導者)リー・クアンユーは涙を流した”【ウィキペディア】とも
*****シンガポール マレーシアから「追放」される形での分離独立*****
マレーシアを結成
1957年にマラヤ連邦が(イギリス植民地支配から)独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任する。その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシアを結成する。
しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化。
1964年7月21日には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生、死傷者が出た。
シンガポール共和国として分離独立
軋轢の激化に加え、1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより、関係が悪化してしまう。
ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシアの連邦から追放される形で都市国家として分離独立した。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流した。【ウィキペディア】
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それが今では・・・・世界有数の金融・港湾都市国家へ変貌。
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シンガポールは、教育、娯楽、金融、ヘルスケア、人的資本、イノベーション、物流、製造・技術、観光、貿易・輸送の世界的な中心である。多くの国際ランキングで上位に格付けされており、最も「テクノロジー対応」国家(WEF)、国際会議のトップ都市(UIA)、世界で最もスマートな都市である「投資の可能性が最も高い」都市(BERI)、世界で最も安全な国、世界で最も競争力のある経済、3番目に腐敗の少ない国、3番目に大きい外国為替市場、3番目に大きい金融センター、3番目に大きい石油精製貿易センター、5番目に革新的な国、2番目に混雑するコンテナ港湾。
2013年以来『エコノミスト』は、シンガポールを「最も住みやすい都市」として格付けしている。経済平和研究所によると、シンガポールは世界平和度指数で9位、汚職の少ない国として12位にランクインしている(共に2022年時点)【ウィキペディア】
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リー・クアンユーの手腕によるところが大きいものの、その強権的政治には批判も。
【2018年 復権したマハティール首相 前年に行ったICJへの控訴を取下げ】
話をペドラ・ブランカ島に戻すと、前期のICJ判断で結着したはずですが、2017年マレーシアは新たな証拠が見つかったとして判決見直しを要求。
しかし、当時のマハティール首相は翌年(2018年)、この控訴を取下げました。これで、ペドラ・ブランカ島はシンガポールが領有することで改めて結着しました。
****ペドラ・ブランカ島帰属問題が決着、マレーシアが控訴取り下げ****
マレーシアとシンガポールとの間で領有権が争われたペドラ・ブランカ島(マレーシア名バトゥ・プテ島)の帰属問題が決着し、シンガポールに領有権のあることが確定した。
マレーシアは1979年、シンガポールが実効支配する同島はマレーシアに属すると主張。ハーグの国際司法裁判所(ICJ)に提訴したが、ICJは2008年5月23日、島はシンガポールに属するとの判決を示した。
しかし判決を覆す可能性のある決定的証拠が英国のアーカイブで発見されたとしてマレーシアは昨年2月、判決の見直しをICJに要求。別に判決内容の解釈を求める請求も行った。
マレーシアは2件の請求とも取り下げをICJに要請し、またシンガポールの法務総裁にも通知。シンガポール側も同意を表明した。(中略)
ラジャラトナム国際研究学院のヤン・ラザリ特別研究員によれば、マレーシアのマハティール首相は、財政健全化など、より重要な課題に取り組むことを優先したと考えられるという。【2018年5月31日 Asia X】
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合理的なマハティール首相にすれば、そんな小さな岩島に拘っても仕方ない・・・という考えでしょうか。
【アンワル政権 ペドラ・ブランカ島に関連する訴訟を審査する王立委員会を設置 マハティール氏が独断で控訴を取り下げたことが不正行為に当たると勧告 因縁のマハティール・アンワル両氏】
それから数年の時が流れ、2024年1月、ロイター通信はマレーシアがペドラ・ブランカ島に関連する訴訟を審査する王立委員会を設置すると報じました。
改めて王立委員会を設置するということは、アンワル首相としては上記2018年のマハティール元首相による幕引きを了承できないということでしょう。
アンワル首相とマハティール元首相・・・・非常に興味深い関係
アンワル氏はかつてはマハティール政権の副首相として後継者と目されていましたが、経済政策をめぐって対立。
アンワル氏は政権からも、与党からも追放され、同性愛の罪(マレーシアはイスラム教を国教とする国家で同性愛は犯罪に該当します。このアンワル氏への嫌疑は政治的なものとも見られています)で投獄されることに。
アンワル氏は2004年に釈放されるものの、2014年に司法の無罪判決取り消しで再び収監されることに。
2018年に首相に復帰したマハティール政権のもとで国王恩赦により釈放され、アンワル・マハティール両者は和解(したことになってはいます)。
アンワル氏はその後2022年に念願の首相の座に。
なお、マハティール氏はザヒド副首相との間でも名誉毀損を巡る裁判を抱えているようです。
そうした個人的な確執がペドラ・ブランカ島をめぐるマハティール氏の対応への不満の背景にあるのか、ないのか・・・
一般論で言えば、アンワル氏の長年の収監に関して加害者側のマハティール氏は「過去の話。水に流して・・・」というところでしょうが、実際に収監されていたアンワル氏の思いはそう簡単ではないでしょう。(もし政治的冤罪だとしたら)
もっとも、マハティール氏にすれば、あれは政治的冤罪ではなく、実際にアンワル氏が罪を犯したから・・・という話でしょうが。
****マレーシア元首相のマハティール氏、捜査対象に? 島の領有権問題で****
マレーシアのマハティール元首相(99)が在任中の政治判断を巡り、捜査対象になる可能性が浮上している。
シンガポールと争っていた小島の領有権に関する国際司法裁判所(ICJ)の判断への異議申し立てについて、マハティール氏が独断で取り下げたことが不正行為に当たるとして、王立調査委員会が捜査を勧告した。マハティール氏は、独断ではなかったなどと否定し、対決の構えを見せている。
現地メディアによると、問題となっているのは、南シナ海とシンガポール海峡を結ぶ要衝にあるぺドラブランカ島などの領有権に関する対応だ。ICJは2008年、同島がシンガポールに帰属するとの判断を下したが、マレーシア政府は17年に異議を申し立てた。
ところが、18年5月の下院選挙を経てマハティール氏が首相に就任した直後に異議申し立ては取り下げられた。
アンワル首相が当時の経緯の見直しを指示したとされ、調査委が今年に入って調査に乗り出していた。今月5日に議会に提出された報告書は、マハティール氏が内閣の承認を受けないまま不当に領有権を放棄したとして問題視した。
これに対し、マハティール氏は自身のX(ツイッター)に45項目にわたる反論を投稿。異議申し立ての取り下げは閣議で合意された▽異議申し立てがうまく進む可能性は低いとする国際法の専門家らの見解を考慮し、国益を優先した――などと主張した。10日に記者団の取材に応じた際には、調査の背景に政治的動機があるとして現政権を非難したという。
(中略)(マハティール氏は)今年1月と10月には感染症の治療のために入院し、裁判は延期されていた。【12月15日 毎日】
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TVでチラ見した現地ニュースでは、マハティール派の野党議員が「不当に責任を押し付けるものだ」と批難。
政府側は王立調査委員会の報告書を検討・議論してくれという立場のようですが、同報告書の多くのページが真っ黒に塗られれており野党議員は「これでは検討もしようもない」と政府を追求していました。
ただでさえ厄介な領有権交渉に、長年のアンワル・マハティール両氏の確執(一応表面的には和解したことにはなっていますが)が加わって、すっきりしない展開に。
なお、アンワル首相については、長年の政治的迫害を経て政権の座についたこれまでとは異なる価値観の政治家と欧米からは期待もされていましたが、その実像は欧米の期待したものとは異なるのではないか・・との指摘もあります。
(“【期待を裏切ったマレーシア首相】西側諸国が間違ったアジアの指導者を支持する背景【10月25日 WEDGE】)