一昨日、宮崎修二朗翁をお訪ねしたとき、帰りに持たされた書籍の中にこれが。
「読んでごらんなさい、面白いから」と。
古い本かと思ったら、この9月に出たばかりのものだった。
近代、現代の詩についての文学史である。
宮崎翁は以前より、「今、詩を書いている人たちは、自分の詩を書くばかりで詩の文学史を勉強しておられませんねえ」と嘆いておられた。そのお言葉を聞く度わたしも後ろめたい気持ちになっていた。けど、努力が嫌いなわたしは、いくら言われても勉強しなかった。そこで、とうとう痺れを切らした翁は、わたしでも読みやすい本を買って下さったのだ。ぱらぱらとページを繰ってみたが今更翁が読んで勉強されるようなものではない。翁の中では常識の範囲内であろう。これならimamuraでも読めるだろうと買って下さったのだ。勉強させて頂きます。ありがとうございます。
昨日は杉山平一先生のお嬢さん、初美様が。
そして今日は宮崎修二朗先生のお嬢さん、安見子様が。
わざわざご来宅下さって、恐れ多くもったいないことでした。
何故に、ということを書くのは遠慮いたしますが、いや、別に人様に聞かれて具合悪いことでは一切ありませんけどね。
明日、大阪のホテルで「杉山平一さんを偲ぶ会」がある。
200人以上が参加されるらしい。
偉い先生方がたくさん出席されるのだろう。
わたしなどは場違いなのだが、出席の通知を出している。
隅の方から偲ばせて頂こう。
昨日ご息女の初美様から頂いた『季』に「杉山平一詩抄」というページがあり、その中の「たましい」という詩。これ好きです。
たましい
僕のこの立小便は
晴れた野原の草に沁み土に沁みこんで
やがて かげろうとなつて天にのぼり
雲となつて遠く行き
オアフ島の上に降るであろう
一滴の水も減らず
一滴の水も増えぬ
この世にあつて
どうして僕の魂も
消えることがあろう
いつの日か一匹の犬となつて
ストックホルムの丘を走り
遂げられなかつた思いに向かつて
遠く高く吠えることであろう
これは多分、昭和20年前後の作品であろう。
シンプルないい表紙だ。
ページ数90に満たんとする特集号である。
同人それぞれが杉山先生とご自分とのかかわりを書いておられる。
それは仕方のないことであろう。そんな中、先生のお人柄が表れている。
中に、初美さんの寄稿があり、それは別格だ。
「父と暮らせば」というタイトルもいいですねえ。
その文章は、こう始まる。
―父がこの世を去ってしまった。
毎朝聞こえていた父の
天声人語を読む声が耳に残っている。
たどたどしく、
でもしっかりとした声。
最後に
「オワリ!」と告げて
新聞を置く。
それから朝食が始まる。― (行わけはakaru)
これだけで詩になっています。情景がありありと浮かびます。
約4000字の父を思う文章だが、心打たれて涙を催す。娘さんにしか書けない追悼の文だ。
明後日、大阪のホテルで「杉山平一さんを偲ぶ会」がある。参加者は200人に上ると。錚々たる人たちが集われるのだろう。わたしは、隅っこの方で偲ばせて頂くことにする。
H谷さんが亡くなられたとの情報が。84歳でした。
すでに葬儀は16日に済んでいると。
H谷さんはうちの店の当初よりの常連さんだった人。
ここ数年体調が悪くお会いすることもなくなっていた。
かつて、うちの店で、夜、店を閉めてから将棋のお相手を毎日のようにした。
Hさんは自信を持っておられたようで、将棋の話になった時に「マスター、将棋やるんか、ほんなら一ぺんやろ」と言ってお相手したのだった。それがもう10年以上前。序盤はバンバン攻められて、わたしはたじたじとなったのだが、終盤逆転勝ちを収めたのだった。それがHさんの闘争本能に火を点けた。以降、毎日のように、2,3番お相手をした。結局1000局ぐらいはしたであろうか。わたしの600勝400敗ぐらいだったか?念のため申し添えますが、公民館での対局では一回も負けたことがありません。会員が見てますのでね。
ところで、Hさんは、西宮の野球協会の理事長を長年務められ、西宮市野球界のドン、あるいは天皇と称された人でした。小さな体でしたが、人を惹きつける魅力をお持ちの人で、人間力もあり、スゴイパワーの持ち主でした。わたしが書くものにも度々登場して頂きました。
時は無慈悲に流れます。ああ。
在りし日のH谷さんです。写真右端。
ここに写っている人のうちすでにお二人があちらに逝かれました。
Hさんのお若い時の写真がこれ。
なにかを想像させる風貌ですね。
「ブルーグラス45コンサート」のポスターとチラシをお持ち下さ<wbr></wbr>ったようです。郵便受けに入っているのを夕方見つけました。
先日、このブログで新聞記事を載せました。それに反応して下さっ<wbr></wbr>てのことのようです。というのも、封筒の表に「ブルーグラス45<wbr></wbr>コンサート ご紹介いただきありがとうございます」と書いてあっ<wbr></wbr>たのです。お会いしたかった。店は閉めてましたが、すぐ横の、家<wbr></wbr>の玄関のピンポンをして下さればよかったのに。残念。うちの店を<wbr></wbr>ご存知の関係者と言えば、敏雄さんぐらいなのだが…。
すでに出稿した原稿だが、間違いに気付いた。11月号だがまだ間に合うだろう。
前のページでちょっと触れた竹中郁に関してのことを書いていたのだが、一部間違っていたのだ。その間違いに気付いたのは、先に書いたブログに関して改めて『私のびっくり箱』を読んでいてのこと。あわてて、「神戸っ子出版」に電話した。担当の編集長は外出中だったが、電話に出た人にお願いしておいた。そして編集長にはメールで訂正をお願いした。
今書いている、資料的なことは間違いがあってはいけない。次の号で訂正して済むというものではない。間違いだけを読んで、訂正記事を読まない人もあるわけで、それが伝わっていけば大変なのだ。
今回は、今朝の新聞記事からの関連で偶然間違いに気付いた。良かった。
今日も夕方から大阪へ。滉一家の夕食を持って。
滉は元気そうにしている、ということで、病院へは行かず。
学校の担任の先生が病院へお見舞いに来て下さったと。
滉はうれしそうにしてたと。
そして、クラスのみんながお手紙を書いてくれて、持って来て下さったと。それも滉はうれしそうだったと。
あのサークルの中でおとなしく本を読んだりしていて、家に帰りたいとは言わないらしい。
入院生活をエンジョイしているようだ。咲友も読書の邪魔をしたりしないし。
しかし助かるなあ。ぐずったりしないでいい子にしていてくれて。
咲友は、昨夜私たちが帰ったあと泣いたそうだ。
滉ちゃんもいないし、お父さんも病院へ滉の付き添いで行ってしまったし、家にはお母さんと二人だけになってしまって、淋しかったようだ。
それも経験だ。