ネットで「南朝」「南北朝」「後醍醐天皇」などを検索すると、数は少ないですが熱狂的なファンが存在しているようです。吉野地域の史跡めぐりや、全国にあるゆかりの神社などをめぐり、活動・交流しているグループもあるらしいです。
<o:p>写真:左の書院は日本最古の「書院造り」</o:p>
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思いが遂げられず悲劇に終わった物語に涙し、楠木正成・新田義貞・北畠親房・北畠顕家(あきいえ)といった天皇の忠臣に深く共感する人たちは多いのでしょう。文学では谷崎潤一郎「吉野葛」や小松左京「本邦東西朝縁起覚書」などが南朝・後南朝をとりあげたものとして有名です。
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さて次の日はイベントで歩き知識を得た道を再び訪れて、南朝・後醍醐天皇にゆかりのある場所を巡り、じっくりと写真を撮りました。南朝の足跡をなるべく時系列に沿って紹介します。
<o:p>写真:書院の中にある「南朝皇居」は小さいお部屋</o:p>
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1336年に後醍醐天皇が最初に吉野行宮(あんぐう:仮の宮)を開いたのは現在の吉水(よしみず)神社です。実はその前に西吉野の賀名生(あのう)にある郷士・堀信増の屋敷に立ち寄っていて、ここは南朝最後の後村上天皇が仮御所を構えたところでもあります。つまり京都から逃げて、(最短距離ではなく)西側から入ってきたということかな。
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吉水神社のHP「花と哀史」で、宮司・佐藤さんはこのときのお話を次のようにされています(文章を略しています)。 吉野神社はもと金峯山寺の僧坊「吉水院(きっすいいん)」で、吉水院宗信という豪僧が率先して天皇を擁護し、人々を説得したのです。
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天皇の味方をすることで一帯が戦乱に巻き込まれること、幕府側につくほうが勝つ可能性が高いことなどで吉野近隣の人々は大反対をし、大勢が「後醍醐天皇に加担しないことにしよう」と決まりかけたとき、蔵王堂の段上から大音響が響きました。宗信が全身烈火の如くの形相で叫んだのです。
<o:p>写真:吉水神社の後醍醐天皇はこんなお顔</o:p>
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「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならない。しかし今損得勘定で逃げたら、その恥は千載に残る。この吉野は勤皇なのだから筋を通すべきだ!反対する者あらば、私を殺してから反対されよ」。
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一同はあまりの凄さに沈黙し「そうだ。神武天皇が熊野からの行幸にもこの吉野地域をどれだけ頼りにされたことか。大海人皇子(おおあまのおうじ)にも祖先は味方した。後醍醐天皇に御味方しよう」と宗信の説得に応じたのです。「南朝の本拠地が吉野にあるのも宗信がいたから」といわれるゆえんです。
写真:吉水神社の木製狛犬?とっても個性的な風貌です<o:p></o:p>