写真:「楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~」
昨年末に実母の自分史である「楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~」を発行しました。(B5版、32ページ、著者:石原淑子、イラスト:石原まゆみ、発行:朱鷺色工房)
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母は第二次世界大戦の末期、昭和20年4月に陸軍看護婦生徒に志願しましたが、直後に岡山大空襲に遭遇し同期生2人をB29の爆撃で失いました。さらに8月6日には本部から「緊急救護要請」が来て、ヒロシマ原爆による被爆者の救護活動に携わりました。
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かねてよりあいよっこには、「母が体験した戦争と被爆者救護のようすを書き残して伝えたい」という気持ちがあり、当初は平成15年に母の話をもとに小冊子にまとめたものでした。
写真:学徒動員の頃、まだ幼さの残るはちまき姿
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それを自分史として発行したのは、東日本大震災に続いて起きた「福島第一原子力発電所の水素爆発」に拠るところが大きいです。
原発爆発により広い地域に放射能汚染が広がり、未だに多くの住民が避難されていますが、廃炉にするにも長い年月が必要だし、汚染地域が除染されるのも天文学的年月と費用がかかるといわれ、元の生活に戻れる目処はたっていません。
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<o:p>写真上と下:苦労を共にした看護婦生徒の仲間たち<o:p></o:p>
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敗戦当時日本は世界に向けて「ノーモア・ヒロシマ&ナガサキ! ノーモア・ヒバクシャ!」と叫んできたのに、「夢のエネルギーを平和利用」とされた原発でも「被爆」という同じ状況が起きているのがとても残念だし、同時に怒りや疑問も湧き上がってきます。
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みなさまにも母の体験を知っていただけたらと願い、自分史のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。
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(∫6) 【学徒動員で紡績工場へ、そして看護婦生徒に】
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第二次世界大戦が激しさを増すなか、昭和19年11月ごろから学徒動員が始まりました。人手不足、物資不足は激しく、学生・生徒たちも貴重な労働力となったのです。<o:p></o:p>
今、全員ハチマキ姿の写真を見ると、まだまだみんな幼さの残る女子生徒たちで痛々しい感じもします。もちろん当時の自分たちは意気盛んでしたが・・・。
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実業学校生徒だった私は、学徒動員でまず井原市にある鳥越紡績工場で生糸を紡ぐ仕事に就きました。生糸からは「軽くて強い」と戦闘機のパラシュート生地が作られると聞きました。<o:p></o:p>
食べ物が足りない状況だったこともあり、蚕のサナギの佃煮などが給食に出たことを思い出します。味は覚えていませんが、不思議と嫌いだとか、食べられなかったという思いはなく、それほど食料不足は深刻だったのです。
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しかし戦況は次第にせっぱつまった雰囲気になりました。実は敗戦色が濃くなってくるのですが、私たちにわかるはずはありません。時代や周囲の人々の雰囲気に押されるように、陸軍看護婦生徒に志願しました。<o:p></o:p>
これには母親が強く反対しましたが、「お国のためにじっとしていられない」と押し切りました。思えば若くて多感な17歳だったのです。<o:p></o:p>
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***続く***
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写真:本人提供<o:p></o:p>
イラスト:石原まゆみ氏提供
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イラスト:解禁となった「初めてのパーマ」をかけたら・・・! <o:p></o:p>
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