あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

韓国の世界遺産第1号 石窟庵 ⑥

2015-09-27 12:57:26 | 韓国の世界遺産第1号 石窟庵(ソックラム

                                

   

   それでは本題に入ります。特にあいよっこが注目したのは石仏さまの両腕・両手、つまり「印」の結び方です。

 

   「慶州で2000年を歩く 新羅から現代への旅」(武井一、桐書房、2003)によると「印は降魔触地印(片手の先を地面につける形)である。釈迦が悟りを開く寸前をあらわしている印で、新羅の仏さまにはこの印をしたものが多い」と記し、具体的には左手を曲げて上向きに腹部に置き、右手は右脚から下に向く形です。

 

       写真下:「トラベルデイズ 韓国」(2013、昭文社) より

 ・・・・

 

   一般的なガイドブックやネットサイトではこのような写真が多く使われています。撮影方向が前方やや下方向からで、後ろからの照明のためか、光の反射が強くて石仏の詳細さや材質感がわかりにくいです。(この写真はそれほどでもないです)

 

  ところが同じ「トラベルデイズ:韓国」(2013、昭文社)の「慶州」とびらページ掲載写真は、胸部分から下に強い影があり、とっても不自然でなにか隠すように補正しているように見えます。

 

 

   さらにあるガイドブックの「石窟庵写真」は、これまで見てきた仏像の撮影方向が違っていて目を引きました。と同時になにか違和感をも覚えてしまいました。「なんでだろう?」

 

「世界遺産~一度は行きたい100選~アジア・アフリカ」(小林克己、JTBパブリッシング、2009)の写真が次のものです。

  

       写真上:「世界遺産~一度は行きたい100選~アジア・アフリカ」より

  違和感の原因はちょっと不自然に見える両腕にありました。ここでは左手が下に伸び、右手が曲がっているようにも見え、それをなにげに修正したようにも見えます。どちらにしてもお腹から下部分があいまいな感じです。

 

  とすると「どこかで両腕・両手の方向が入れ替わった」ということでしょうか? そう思って写真を見直してみると、修復前の写真も下腹部が黒くなっているし、その上にある黒い影の写真も「なにか隠したいのだ」と納得できます。だけど韓国には文化遺産や歴史史跡などに関する専門家とか研究者がいるはずですよね? 

 

  もしこれが事実としたら、「いったいどこまでの修復作業が認められるのだろうか?そもそもそこに仏像は存在していたのだろうか?世界遺産ってなに?」という疑問と不思議な気持ちが湧いてくるのです。

次回は「なぜ石窟庵は厚いガラスで覆われているのか」について考えてみたいです。

               ・・・続く・・・

                                      

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韓国の世界遺産第1号 石窟庵 ⑤

2015-09-27 12:54:00 | 韓国の世界遺産第1号 石窟庵(ソックラム

     ああ、なんということ!前回から1ヵ月近く経過しているよ~。秋風が吹いて心身にはここち良い気候となりましたが、世の中はなにかと気ぜわしく、毎日いろいろな事件・事故などの報道が続いています。とニュースについて話しているとまたまた本題からそれてしまうので、このへんで・・・。

                                                                

   韓国世界遺産の「石窟庵」に関して、図書館や本屋さんで文献・ガイドブックなどを調べて見ました。まずは各書・各誌やネットサイトに掲載されている写真と説明文についてです。

 

   ウィキペディアの「石窟庵」ページにある「発見された当時の石窟庵の写真」がコピペできないと前述しましたが、「慶州で2000年を歩く 新羅から現代への旅」(武井一、桐書房、2003)に掲載されていたので、撮影してお借りしました。

 

   写真説明には、「【修窟前の石窟庵】天井もほとんど落ちている。『ふたたび見る慶州と博物館(国立慶州博物館、1994)』収載」とあります。これで掲載元がはっきりしましたが、やはり府に落ちない部分があるような・・・。

 

  写真からは石仏の前部にはなにもないように見えますが、修復後は前面に2つの部屋をつなぐ「扉道」(通路)と、さらに前室を造り、全体として「前方後円墳」の形になったようです。なにかの資料・証拠があったという記述はなく、「これは日本人が造った」としている文献が多いようです。修復自体はそれほど昔のことではないのですが・・・。

 

   また石仏について同書は「本尊は真っ白な花崗岩を削りだしたもので、ふくよかな顔、自然な体の線などによって石の冷たさをあまり感じさせない」と解説しています。

一方で「通常は仏様には光背がつくが、石窟庵には光背がない。・・・釈迦如来と、阿弥陀如来の両方の説がある」と記していて、仏像としては仏教の規則からはずれているのかもしれません。

 

  それにしても発見された当時でも1200年前、今現在だと1300年前とされる石仏がとっても白くなめらかでくっきりとしているのには驚きます。周囲に配置された十数体のレリーフは、さまざまな仏さまが混在していて、こちらも同様に年代を感じさせない美しさ!です。

 

  高さ3・4mの石仏は硬い花崗岩で、ドームの天井にも合計約360個の花崗岩が使われていて、「柱を使わず、四角い石を合わせていきながら、間にかんざし模様の石をくさびのように打ち込み天井が崩れるのを防いでいます」と説明があります。当時としては大変な建築技術だったことでしょう。

 

  周囲の山は花崗岩ではないので、石仏・天井・壁のレリーフ石像などは他所から運搬したと考えられますが、相当多量です。また修復前の写真から石仏の前両サイドにある石柱幅が狭く、後からの搬入は困難なため、修復作業はこの狭い空間に篭って?行ったらしいです!! 100年前の修復工事の資料も全くないのでしょうか、日本人が手がけたとするととっても不思議です?

         ・・・ 続く ・・・

                                        

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