ウクライナから大量のユダヤ人が出国したそうです。宮崎さんがご自分の著書を引用しなながら詳しく書いてくれています。
それにしても、宮崎さんの自分の足で取材する気力と体力には感心します。反日売国左翼・在日マスメディアの記者たちが宮崎さん一人に勝てないのも当然かも。
やはり、自分で歩かれた現場の様子は分かり易くて感動させられます。
「宮崎正弘の国際情勢解題」より 令和四年(2022)2月15日(火曜日)
通巻7219号 <前日発行>
ウクライナから大量のユダヤ人が出国した
オデッサからイスラエルへの帰国便は満員
ウクライナのオデッサからユダヤ人が大量に出国している(エルサレムポスト、2022年2月14日)。
学校では留まるように教師等が説得しているが、すでに150家族はイスラエルに向かった。ベングリオン空港の到着風景がイス ラエルの新聞を大きく飾っている。
以下は拙著『日本が全体主義に陥る日』(ビジネス社)から、このオデッサ訪問旅行記の半分ほどを抜粋した。
▼ウクライナの中で、飛びぬけて自由と繁栄を享受する港町=オデッサ
オデッサは「黒海の真珠」と称される美しい港町だ。横浜市と姉妹都市の関係を結んでいる。
一九〇五年の戦艦ポチョムキンの反乱は、このオデッサで起きた。
ソ連映画史に輝く名画「戦艦ポチョムキン」は一九二五年に制作され、世界中の注目を浴びた。ついでに書いておくと世界的ベス トセラーとなって映画化もされたフレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』はこの港町とは無縁でリガでのユダヤ人 虐殺を命じたナチス高官を追い詰めるジャーナリスト、それを妨害するナチス残党の眼に見えない組織の名称である。
黒川祐次(元ウクライナ大使)は『物語ウクライナの歴史』(中公新書)のなかで次のように書いている。
「オデッサは古代黒海北西岸にあったギリシア植民都市オデッソス(ギリシア神話の英雄オデッセウスから来た名)にちなんで 名づけられた。オデッサは
一七九四年、エカテリーナ二世の勅令にもとづいて建設され、一八一七年に無税の特権を得てから目覚ましい発展を遂げた。そし て一八六五年オデッサと
ポディリア地方を結ぶウクライナ最初の鉄道が敷設され、穀物の内陸輸送が可能となるとその発展に拍車がかかった。一八四七年 には全ロシアの穀物輸出の
半分以上がオデッサ港からなされた。まさに穀倉とオデッサ港は表裏の関係にあった。(中略)ロシア帝国にとって世界への南の 窓であった。コスモポリタンな都市で、輸出業はギリシア、イタリア、ドイツ、ユダヤの商人たちによって行われていた。その他 トルコ人、アルメニア人、西欧・東欧の諸民族が雑多に住んでいた。同じ正教徒ということでギリシア人の数は多く、トルコから の独立運動の拠点になった。ユダヤ人の数は次第に増加し、ロシア革命直前には市の人口のほぼ半分を占め、ロシア・東欧のユダ ヤ世界の中心となった」。
そのオデッサ、今や人口百万人という大都市の礎を築いたのは女帝エカテリーナ二世だった。この偉業を讃え、市内には彼女の 巨大な銅像が建っている。
二〇一四年から始まったウクライナの内戦はまだ終結したわけでなく、首都キエフから東側、ロシアに近いほど治安は不安定。 むしろ無法地帯然としている。
四半世紀前に首都のキエフを訪れたことがある。ちょうどビル・クリントン大統領(当時)の訪問直前だったため宿泊したホテ ルのバーには先乗りしていたSPが陣取り、アメリカの歌を唱って陽気に騒いでいた。西側に急傾斜するウクライナに対して、な す術もなく拱手傍観したエリツィン政権のロシアをよそに街は「米国大統領訪問」という祝賀ムードにあふれていた。
(いよいよ経済繁栄と自由がやってくる)
広場は喧しい音楽と踊りで浮かれ、オペラ座も満員。人々は全身で喜びをあらわし、次々とシャンパンの栓を抜いていた。
▼オレンジ革命の♪「夢は儚く消えて」。。。。
その夢ははかなく潰えた。
「オレンジ革命」から大した時間も経たないうちに、東部の分離独立機運がにわかに勃興し、ヤヌコビッチ大統領はロシアへと 逃亡した。そしてロシアから投入された「民兵」と衝突、ロケット砲を撃ち合い、戦車を繰り出す内戦の日々が始まった。プーチ ンは「ロシア軍は関与していない」と否定しつつ民兵に間断なく軍事的支援を続けた。一時休戦がなったのはサルコジ(フランス 前大統領)の調停によってであった(後注 マクロンが廊下鳶を演じるもサルコジの真似だが、五月大統領選挙を控えているため でもある)。
こんな状況だからウクライナ渡航はさぞ難しかろうと身構えていたのだが、意外や日本人はビザ不要、航空便はヨーロッパ各地 から、そして中東諸国からも多数就航している。筆者はイスタンブール経由便を撰んだ。
ユダヤ人の街として交易で栄え、映画の舞台にもなったオデッサは経済的繁栄を謳歌している。
オデッサではオペラ座の向かい側に建つ老舗のモーツアルト・ホテルに投宿した。ここから港へ向かって歩けば数分で観光名所 「ポチョムキンの階段」へ行ける。
世界的に有名になったその階段を目当てに、次から次へと観光バス、馬車、マイカー、リムジンが到着し、記念写真を撮ってい る。
白人も黒人もヒスパニック、ラテン系の人々、本当に世界中の人種が勢揃いしたような印象である。港からフェリーで着いた客 用にはケーブルカーも設置されている。広場は年中フェスティバルが開かれているような賑わいである。キャラクターの風船売 り、大道芸人、トランペット吹き、手品師、綿菓子。記念写真屋、カメラ。。。。。。
(とても同じ国の東側で内戦をしているとは思えないなぁ)
波止場の突端まで二十分ほど歩くと、黒海クルーズを愉しむことができる。一時間=五百円。黒海沿岸をひと回りするのだが、 デッキまで鈴なりだ。出航し、コンテナヤードを経て沖合へ一〇分も出るとアルカディアという有名な海水浴場に至る。まぶしい 太陽の下、ビキニ姿の老若男女が日光浴を楽しんでいる。
岸辺の緑の中に豪華別荘群、リゾート・マンション、いまも建設中の高層マンションが林立して見えるではないか。これにはい ささか驚いた。
「貧困のウクライナ」というイメージとはかけ離れた眺めだ。
▼街の繁栄、シナゴールの静寂
デリバスィフス通りは「オデッサの銀座」だ。両側にグッチやディオール、モンブランなどのブランド店も軒を競っているが、 歩道いっぱいに陣取るカフェ、さまざまな意匠をこらしたエスニック・レストランが魅力的だ。
それぞれが入り口にユニークな看板を掲げ、覗いてみようかと興味をそそられる。ウクライナ料理だけでなく評判の高いグルジ ア、海賊の伝統調理のバルト料理、ボルシチとピロシキが売りのロシア料理。なぜか値段の高いフランチ・レストランもある。
なかでも店数の多いのがイタリア・レストラン、そしてオデッサにもやはり「寿司バー」がある。水たばこの店も。しかし世界中 で共通の中華料理とコリアン・バーべキューは見かけなかった。
▼ウクライナ語に翻訳された日本人作家は?
間口の狭いレストランでも、一歩中に入ると中庭があってそれが結構広いのだ。これは旧東欧に特徴的で、とくにベラルーシ、 モルドバだけではなくポーランドでも建物の間口は狭いのに内部は奥深い。
中庭には緑の木立、噴水、公園にはベンチが並び、中国伝統建築の四合院のような建築思想に縁っているようだ。この広い中庭 にテントを広げて、テーブル席が設えられている。
書店で「日本人作家のものはありますか?」と店員に話しかけてみた。女性店員はすぐに三島由紀夫と村上春樹のコーナーへ案内 してくれた。
滞在三日目、駅まで六キロほど歩いた。
猛暑の中、汗びっしょりになりながらカリフォルニア通りを左折し、シナゴーグ跡へ向かった。
冷戦時代までユダヤ人街だったこのオデッサの下町はユダヤ人が去ってからは極度に寂れ、貧困のにおいが漂っている。ゴミも 多く、街の風景がくすんで見えた。ユダヤ人たちは大挙してイスラエルと欧米諸国へ移住した。
モスクワ、キエフと繋がる鉄道のオデッサ駅はいかめしく頑丈なつくりでロビーもオペラ劇場かと見まごうほどに堂々たる意匠 で、広々としている。
その駅前には乞食、宗教団体の宣伝隊、レストランのチラシ配りに交じって、近郊へ向かうバスの呼び込みの声が飛び交って賑や かだ。
オデッサには歴史館、民族展示館、美術館に加えて文学館が驚くほど多い。(隣国モルドバの首都)キシニウと並んでオデッサ にもプーシキン記念館がある。
都を追われたプーシキンが一年間、オデッサに滞在した経緯がある。
世界の紛争の場にもそれぞれ歴史があり、それを壊しても儲けたい奴等のマネーゲームに腹が立ちます。
やはり、そんなに儲けてどうすると思ってしまいます。金と権力に魅了された人間はどうにもならないようです。
シラス国を造り上げてきた日本の凄さに改めて感動します。