Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

レインメーカー

2014年05月16日 02時45分21秒 | 洋画1997年

 ◇レインメーカー(1997年 アメリカ 135分)

 原題 The Rainmaker

 監督 フランシス・フォード・コッポラ

 

 ◇原告側弁護人

 ジョン・グレシャムにフランシス・フォード・コッポラとくれば、これはもう期待大で観るしかない。

 なんてことをいうのは、ぼくには似合わない。

 だって、ジョン・グレシャムの本を読んだことがないんだから。

 だから、正確にいえば、グレシャム原作の映画といわないといけない。活字嫌いのぼくは、よほどおもしろい映画に出会っても、なかなか原作には手がのびない。でも、あれこれと映画を見てる内に「これ意外におもしろいかも」とかおもうのは、グレシャムの原作だったりすることがある。そこへもって、コッポラはぼくの贔屓の監督だから、期待大になるわけだ。

 いたって予定調和な裁判劇ではあったけど、弁護士という職業についてどうしてもつきまとう胡散臭さと巨大なものに戦いを挑むドンキホーテ的な正義感とが上手に組み合わさっているのは感じられた。タイトルの「レインメーカー」ってのがよくわからなかったんだけど、どうやら「金を雨に例え、雨が降るように大金を稼ぐ弁護士」のことらしい。あ、なるほどね、とおもった。

 ダニー・デビートが実にうまく、法廷という職場における老練さを軽く演じてる。マット・デイモンが青二才の分、パラリーガルとしての立場をよくわきまえながらも、ちゃんと仕事をこなしてる。なんで、これだけ裏情報にも精通したおっさんが司法試験を6回もすべってるのかよくわからないところもあるんだけど、やっぱりどこか抜けてるんだよね、たぶん。そんなふうにおもわせるところが、うまい。

 まあ、マット・デイモンもまたさほど優秀でないロー・スクール出の若造で、こういう野心はあっても優しさが仇になっっちゃうかもしれない危うさをもった人間には、ちょうどうまく嵌まるようにパラリーガル役として作られてる。そういうちょっとしたところがうまいのは、原作なのかそれとも演出なのかはわからないけどね。

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善魔

2014年05月15日 15時22分44秒 | 邦画1951~1960年

 ◇善魔(1951年 日本)

 三國連太郎、デビュー。

 作品中の新米記者三國連太郎の役を演じたことで、

 そのまま芸名になったという記念すべき作品ながら、

 ちょっと中途半端な印象の残る作品な気もするんだよね。

 主人公の森雅之がなんとも消化不良な役回りで、

 正義感はあるし、社会の矛盾を糾弾しようとしてるのに、

 愛人なのか彼女なのかわかんないけど、

 ともかくさほど愛しているともおもえない小林トシ子と、

 つかずはなれず、粘着感ありありの関係を結び続け、

 そのじめじめした性格のとおり、

 大学時代に惚れていた淡島千景が官僚の妻になってるのに、

 それでも忘れられずにいたところ、

 疾走別居とかいうニュースを手にするや、

 部下の三國連太郎を遣って取材させるんだけど、

 それはなにも官僚のスキャンダルを暴こうとするんじゃなくて、

 あくまでも自分のためで、あわよくばモノにしたいような感じが濃厚に漂う。

 これが善魔っていうには、あまりにもしょぼいんだけど、

 一方、三國連太郎の相手役になる淡島千景の妹役桂木洋子は、

 黒澤明の『醜聞』とおんなじで清純無垢かつ病身薄幸の可憐な美少女なんだけど、

 彼女が死ぬことがクライマックスにもってきてる以上、

 どうしてもこのカップルに物語の比重が掛かってくる。

 なんというのか、物語の構成がちょっとまずったんじゃないかって気もするわ。

 ただ、岸田國士の原作を読んでないから、

 脚本がよくなかったのかどうかってところはよくわからない。

 まあ、森雅之が、正義を旗印にしてそのとおりに行動しながらも、

 愛欲ばかりはどうにもならないっていう葛藤に苛まれるなら、

 もうすこし惹かれるものがあったかもしれないんだけどね。

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ある過去の行方

2014年05月14日 14時23分21秒 | 洋画2013年

 ☆ある過去の行方(2013年 フランス)

 物語をつくるのはむつかしい。

 そんなことはぼくみたいな素人がいったって仕方がないことなんだけど、

 でも、むつかしい。

 それが、登場する人間に誰ひとり悪者がいなくて、

 現在、登場人物たちが追い込まれている状況のなんらかの原因が過去にあったとして、

 それを探ってゆくときに、決して回想場面を使わず、

 くわえて感情と感情がぶつかったりすれちがったり、

 ときにはおもいこみだけが突っ走る告白によったりして、

 観るものが過去のなんらかの事実を推測し、判断しなくちゃいけない物語を、

 なんにもないゼロの状態から作っていかないとしたら、

 これはもうむつかしくて仕方がないだろう。

 しかも、欧米が抱えているのは移民問題で、

 こいつが微妙に、たとえばヒロインの二番目の夫の帰国や、

 ヒロインの不倫相手の妻(植物人間になってる)が洗剤を呑んだ、

 クリーニング店の従業員とかが、そうした問題を抱えてて、

 それが登場人物の人生にかなりの影響を与えてるもんだから、

 ややこしい人物関係を余計にこんがらからせる。

 ただ、

 どろどろした人間関係の中にも、そこかしこに愛はあって、

 ここに登場してくる人達は実をいえば皆が愛し合ってて、

 でも、自分の欲求に正直で、嘘をいうことが下手で、

 自分を表現することが不得意であるために、

 感情が爆発してしまうと自虐的な行動や破滅的な罵倒で衝突してしまう。

 よくもまあ、こんなめんどくさい関係を物語にしたもんだけど、

 どうしても前半は関係を説明しなければならない分、退屈になる。

 ぼくのように炭水化物を胃袋に入れて観に行った者には、

 いやまじ、拷問みたいな単調さだったし。

 でも、ピアノの不気味ながらも魅惑的なメロディは、

 なんともいえないサスペンス感を盛り上げてる。

 会話の繰り返しや悲劇の繰り返しに加えて、

 音楽までもが単調に繰り返される。

 絵づくりがじっとりと落ち着いた色と構図なものだから、

 精神面だけでなく、なにもかもが重苦しく感じられる。

 いや、アスガー・ファルハディ、すごい。

 ちなみに、神経質なヒロインのベレニス・ベジョは綺麗だけど、

 長女を演じたポリーヌ・ビュルレは、困っちゃうくらい、えらく可愛い。

 こりゃあ、もう一度、じっくり観ないとあかんな~。

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みえない雲

2014年05月13日 01時27分25秒 | 洋画2006年

 ◎みえない雲(DIE WOLKE 英題The Cloud 2006年 ドイツ)

 1986年にチェルノブイリで放射性物質漏洩事故があって、

 それをもとに1987年、ドイツでヤングアダルト向けの小説が出た。

 これがさらに漫画化され、映画の原作にもなるんだけど、

 ちょっと民度っていったら怒られるかもしれないが、

 さすがにドイツはちゃんとしてるとおもった。

 日本が舞台だったら、

 こういう小説は出せたところで読者は限られるだろうし、

 さらにいえば、テレビドラマ化なんてことはまずもって考えられない。

 映画になったとしても、観客はやはり限られちゃうだろう。

 で、日本では、小説も漫画も出版され、映画も公開された。

 反響はどうだったかといえば、まあ、そんなところだ。

 原子力発電所が放射性物質の漏洩事故を起こさないという絶対的な保証はない。

 漏洩した放射性物質を大量に含んだ雲が町や野を覆って雨を降らせ、

 これによって被曝した人々が大量に出、

 つぎつぎに悲惨な結果を迎えることだってありえる。

 ちなみに、

 主演したパウラ・カレンベルクは、

 チェルノブイリ事故のとき、胎児だったそうだ。

 美しく健康的な外見ながら、

 心臓に穴が開いた状態で生まれ、片方の肺はなかったらしい。

 でも、がんばって映画の主演を果たしてる。

 原作は、ドイツ児童文学賞を受賞し、

 映画は、ドイツ映画賞2007で最優秀青少年向け青春映画にノミネートされた。

 ドイツでは、

 制作者側も観客側もきわめて冷静で、

 原子力に対して賛成とも反対ともこの映画を核にして声高な議論はないはずだ。

 それでいい。

 映画は、

 原子力発電所の事故にたまさか巻き込まれてしまった人々の悲劇を、

 淡々と追いかけているだけなんだから。

 受賞についても、製作についても、感想についても、

 すべてをひっくるめて、さすが、ドイツだ。

 できれば、日本でもヒットしてほしかったんだけど、

 なんで、そうならなかったんだろね?

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鉄塔 武蔵野線

2014年05月12日 18時59分26秒 | 邦画1991~2000年

 ◎鉄塔 武蔵野線(1997年 日本)

 封切られたときから、観たくて観たくて仕方がなかった。

 でも、観る機会がなかった。

 それが、ようやく観られた。

 伊藤淳史の初主演作であると同時に代表作だとおもうんだけど、

 なんともふしぎな映画で、

 自主製作映画の匂いが濃厚に感じられる映画でもある。

 手づくり感が満載で、ぼくはこういう映画は嫌いじゃない。

 銀林みのるっていう原作者がどういう人かはわからないんだけど、

 鉄塔に興味を持ち、

 ひたすら写真を取り続けていきたいとおもうような、

 そういうこだわりを抱えた人であることはまちがいないわけで、

 なんとなくわかる。

 鉄塔オタクな人々がいるかどうかは知らないものの、

 高圧線が続いていく果てになにがあるんだろうとぼんやりおもい、

 大人だったら「どこかの変電所か発電所だろ」とか結論づけて、

 そのまま思考を停止させちゃうんだろうけど、

 子供の場合はそうはいかない。

 電線の続いている元はどういうところなんだろうとおもうよりも、

 番号の「1」あるいは「0」を観てみたいと素朴におもい、

 そのまま行動にうつしちゃうのが子供だ。

 しかも、

 両親が離婚しそうになってるところへもって、

 ひっこしをしなくちゃいけないなんてことになったら、どうだろう?

 父親は磁力にはとてつもないパワーがあると信じてるし、

 伊藤くんもまた信じてる。

 ふたりは純粋な心を持ちながらも社会にそぐわない人間という共通項を持ってる。

 だから、伊藤くんは父親のことが好きだ。

 でも、母親の手前、どうしても父親に面と向かえない小心さがある。

 だから、伊藤くんとしては磁力のパワーに期待するしかない。

 かれが、子分になってるアキラを連れて、巡礼めいた冒険の旅に出、

 鉄塔の真下にビールの王冠でつくったメダルを埋めていくのは、

 番号「1」もしくは「0」まで至ったときに奇跡が起きるのを信じたからで、

 そのためにも夢中になって自転車を漕いでいく。

 もちろん、途中で、

 ちょっとありえないだろ、みたいな作業員に襲われたりもし、

 いくら子供で、しかも夢中になったとはいえ、

 無計画すぎるだろみたいな感じもあるけど、

 まあ、そのあたりは深く追求しないでおこう。

 ともかく、伊藤くんの祈りは、両親が離婚をおもいとどまることで、

 そのためにぼろぼろになりながらも鉄塔巡礼をしないといけない。

 このあたりは、涙が出るほどに悲しい冒険だ。

 でも、伊藤くんはやりとげることはできない。

 で、別れてまもなく父親が死ぬ。

 離婚をおもいとどまらせていれば、こんな不幸は起きなかったかもしれない。

 まわりは伊藤くんがなんの感情を浮かべていないことに不思議がるかもしれないけど、

 それだけ、この子は自分を表現することが苦手なんだ。

 だから、お葬式だって、かれには上手にできない。

 長崎に引っ越してからアキラにも会っていなかったら、アキラの家にも行く。

 もちろん、アキラに会いたいのもあるけど、それよりアキラのママに会いたい。

 だって、伊藤くんは大人の女性が好きで、

 母親の麻生裕未が父親の連れ合いとはおもえないほど魅力的なもんだから、

 当然、母親のように官能的で魅惑的な大人の女性を求めちゃうのかもしれいけど、

 ともかく、近内仁子の演じるアキラのママは、右の太ももにちょっとした痣があったりして、

 それがまた謎めいた官能を匂わせ、天真爛漫に見えながらも、

 オタク心をくすぐってやまない少女が同居したような魅惑をかもしだしてる。

 そんなアキラのママも、たぶん、アキラをぼろぼろにした伊藤くんを恨みながら、

 どこかに引っ越しちゃってることに、伊藤くんは悲しむわけだけど、

 伊藤くんはそんな悲しみにひたってる閑はない。

 なぜって、かれなりに父親との別れをしないといけないんだから。

 父親を野辺に送るのは鉄塔しかないと伊藤くんはおもうんだな。

 このあたりの不器用さは、ほんとにしみじみ感じられる。

 伊藤くんは出かけ、ふたたび鉄塔を巡礼する。

 これが、伊藤くんなりの野辺の送りだし、

 もしかしたら、奇跡が起きて父親が蘇るかもしれないじゃん。

 でも、変電所っていうとんでもない神殿に至ったとき、絶望するんだ。

 おとうさん助けてとおもったとき、ちいさな奇跡が起きる。

 変電所の草刈にやってきた業者とラーメン屋で遭遇するんだ。

 それはお父さんとふたりでワンタン麺を食べたところで、

 これはまさに死んだお父さんが奇跡を起こしてくれたにちがいない。

 だから、伊藤くんはまるで死んでしまったかのように裸になって、

 棺桶のような竹かごに乗りこんで、トラックの荷台で眼を閉じる。

 伊藤くんは生きているんだろうけど、

 そのときの表情は祈るっていうより父親と心中するみたいな雰囲気になってる。

 いや、まじ、おもしろい映画だった。

 でも、ぼくみたいな解釈をしてる人に、

 ぼくはこれまで出会ったことがない。

 やっぱ、考え過ぎなのかな~?

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ダンケルク

2014年05月11日 18時47分49秒 | 洋画1961~1970年

 ◇ダンケルク(WEEK-END A ZUYDCOOTE 1964年 フランス、イタリア)

 1940年6月初旬の土曜日、

 ダンケルクの近くのズイドコートの情景を描くっていうただそれだけの話ながら、

 もちろん、

 その当時ダンケルクは大変なありさまで、

 そこで兵役についているちょっぴり斜にかまえたベルモンドにしてみれば、

 絶望と不安の中でなかば開き直るしかない。

 で、やっぱりフランス映画らしく、

 戦争のまっただなかでも女性とは出会う。

 犯されそうになるところを助けて、

 自由にしてくれとせがまれてもそれをしてやれず、

 悶々とする中、仲間の兵士たちが死んでいくのを見つめながら、

 でもやっぱりふたりで添い遂げるのがいいとおもいなおし、

 結婚の約束をしてふたりでここから立ち去ろうと支度をし始めたのもつかの間、

 自分は爆撃に想像して死に、

 遅れてやってきた彼女は茫然としてゆくあてもなくさまようという、

 なにもダンケルクが舞台でなくてもいいじゃんか~とかいわれそうな、

 それでいてダンケルクだからこそ物語になるんじゃんか~と反論されそうな、

 なんともフランス映画らしい戦争映画だった、

 としかいえない。

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トロッコ

2014年05月10日 18時35分05秒 | 邦画2009年

 ◎トロッコ(Rail Truck 2009年 日本)

 よく作ったなあってのが、いつわらざる印象だ。

 台湾の花蓮県に行きたいっておもわせるんだから、ほんとによくできてる。

 あらすじはさておき、

 なんといっても梅芳がうまい。

 ほかの役者さんもそうだけど、

 いかにも、むかし、日本人に習った日本語を喋ってる感じがよく出てて、

 この台詞を書いた人はたいしたもんだっておもえた。

 カメラも音楽もともにしみじみしてて、全体の統一感がよく取れてる。

 花蓮県の港まで軌道が通じているっていうのを、

 もうすこし出してほしかったのと、

 写真を小道具にしているわりには、それについての挿話がなかったのと、

 子供ふたりが初めてのところに来ているんだから、

「帰り道はわかるのか」と質問して、

 子供を連れてきた張本人が追いかけていかないのはないだろっていうことと、

 尾野真千子が「台湾で子供を育てたい」といえるまでになる挿話がなかったのと、

 どうして祖父母が別々に暮らしていたのかっていう台湾の一家の説明が、

 いまひとつ不十分におもえたことなど、

 絵つくりやその場その場の演出が好いだけに、

 ところどころの疑問符が残ってしまうのが惜しい。

 でも、よかったわ。

 ええ映画やったわ。

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Virginia ヴァージニア

2014年05月09日 23時41分02秒 | 洋画2011年

 ◇Virginia ヴァージニア(Twixt 2011年 アメリカ)

 フランシス・フォード・コッポラの製作脚本監督で、

 エル・ファニングが幻想の少女を演じるとくれば、

 観ないわけにはいかない。

 しかも、

 スランプに陥ったミステリー作家の訪れた町に、

 その昔、

 大量の子供たちが行方不明になった事件があり、

 この謎を解き明かすために小説家を案内するのが、

 エドガー・アラン・ポーの幻影だなんて設定を聞けば、

 もはや、観ずに死ねるか状態になっちゃう。

 で、観た。

 う~ん、

 さすがにコッポラは年老いてもコッポラで、

 絵づくりは見事だし、編集も上手だし、役者の使い方も好いんだけど、

 主役のヴァル・キルマーがな~ちょっとな~、

 不遜すぎるっていうか、肥りすぎっていうか、

 ゴシックミステリーに向かない態度と体型なんだよね。

 やっぱ、そういうのって大事じゃない?

 コッポラ、ちょっとミスっちゃったかしら。

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エンジェルウォーズ

2014年05月08日 19時48分42秒 | 洋画2011年

 ◎エンジェル・ウォーズ(Sucker Punch 2011年 アメリカ)

 原題の「Sucker Punch」ってのは、不意打ちって意味らしい。

 なにが不意打ちなんだかよくわからないんだけど、

 いやまあ、なんていうか、おもしろかった。

 製作監督脚本をこなしたザック・スナイダーによれば、

「1950年代にマシンガンをかついだ不思議の国のアリスが登場する話」

 とかってことになるそうな。

 たしかにそうではあるが…。

 まあ、遺産相続めあての叔父の陰謀で、

 売春宿に送り込まれてロボトミー手術を受けさせられそうになる少女が、

 幻想と現実の狭間をさまよいながらやがてバスで逃げ去っていくまでの、

 なんともかなりセクシュアルなミュージカル的バイオレンスSF活劇になってる。

 これはやっぱり爆音の大画面で観たいよね。

 さぞかし、

 すっきりするんじゃないだろか。

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風花

2014年05月07日 19時26分44秒 | 邦画1951~1960年

 ◎風花(1959年 日本)

 生まれて初めて実物の風花を見たのは、小学生のときだった。

 当時、ぼくらの小学校には用務員さんが棲んでいて、

 かまどが土間に置かれてて、

 給食の食パンをそこで焼いてもらって食べてる子もいたりした。

 ぼくはそこまで出来なくて、

 朝礼台のうしろ、ていうか、運動場へ下る端っこに立ってる用務員室は、

 なんとなく入り辛いところだった。

 ま、そんな用務員室が取り壊されて花壇になってしまったのは、

 小学3年生だったか、その年の冬、ぼくは朝、花壇の脇に立ってた。

 空は真っ青なのに、なんでか知らないけど、雪が真横に飛んでた。

 ぼくの頭や肩にはまったく降ってこないで、空に浮かぶ川のように飛んでた。

 風花だった。

 まあ、そんな思い出話はさておき、

 農村メロドラマなんていう括りがあるとは知らなんだ。

 けど、たしかに農村メロドラマだ。

 とはいえ、デビューまもない和泉雅子の可愛さもさることながら、

 岸恵子がとっても好い。

 彼女ために木下恵介が書き下ろしたって話だから、

 当たり前といえば当たり前かもしれないけど、

 信濃川の流れる信州善光寺平を舞台に、

 土地の名家である名倉家が没落していく最後の20年間を、

 きわめて斬新な編集でまとめてる。

 普通、こういう手の作品は、堂々3時間あまりの超大作になって、

 観るのも辛くなるような淡々さで描かれていくんじゃないかっておもうんだけど、

 さすがに木下恵介はそうしただるさなんて微塵もない。

 なんといっても凄いのは、

 まったくおなじ構図で人物入れ込みのカットが続くんだけど、

 それが20年の歳月をぴしゃんと感じさせる演出と作り込みだ。

 これは、ほんとにたいしたもんだ。

 それと、

 セットはまあ上手に作り込んであるんだけど、

 ちょっと目を奪われるのは、名倉家の全景だ。

 どこでロケしたんだろうっておもわせるくらい、物語にマッチしてる。

 信濃川にかかる半分壊れた下の橋はたぶんロケセットを組んだんだろうけど、

 この全景も建て込んだものなんだろうか?

 たしかに映されてるのは引きも寄りもおなじ方角からだから、

 オープンセットとおもえばおもえないこともないこともないんだけど、

 だとしたら、たいしたもんだ。

 ちなみに、上の橋は、

 千曲川にかかってる長野市若穂の関崎橋らしい。

 でも、いまはあんな風情はなくて鉄骨橋梁になってるみたいだ。

 残念でならん。

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冬のライオン

2014年05月06日 19時15分41秒 | 洋画1961~1970年

 ◇冬のライオン(The Lion in Winter 1968年 イギリス)

 1183年、フランス、シオン城。

 まあここでイギリス王ヘンリーを中心にして、

 幽閉した妃エレノア、息子のリチャード、ジェフリー、フランス王のフィリップ、

 末子のジョン、フィリップの異母姉かつヘンリーの愛人であるフランス王女アリースが、

 崩壊しつつある家族間の憎悪や信望について葛藤を繰り広げるわけだけど、

 舞台劇が映画になり、さらにリメイクもされたりと、

 どういうわけか、欧米はこの物語が好みらしい。

 大学のとき、名画座でときどきかかり、

 同級生の女の子がやっぱりこの物語に嵌まり、

 主役のピーター・オトゥールの話はまったくしないで、

 ひたすら、キャサリン・ヘプバーンの話題に終始してた。

 どうやら、

 世の女性はこの王妃の誇り高さにある種の憧れを持つみたいだ。

 主演は男女ともにアカデミー賞を受賞してるのにね。

 あ、ちなみに、

 アンソニー・ホプキンスとティモシー・ダルトンがすげー若い。

 とおもって調べてみたら、びっくりした。

 デビュー作だったのね。

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風が強く吹いている

2014年05月05日 14時17分56秒 | 邦画2009年

 ◇風が強く吹いている(2009年 日本)

 なんだか、

 時代設定がいつなんだろって、おもいながら観てた。

 たぶん、昭和50~60年代なんだろうけど、

 そういうところからいえば、

 おんぼろアパートに下宿する学生たちの雰囲気も、

 時代を感じさせるあだ名のつけ方も、

 おたがいの感情が交差していくあたりも、

 さらにいえば、登場人物たちのそれまでの話も、

 なんとなくすんなりわかる。

 ぼくもその時代に生きてたしね。

 でもな~、

 ぼくはマラソンとか得意じゃないし、

 箱根駅伝とかもわざわざ観に行くほどのファンでもないから、

 めったなことはいえないんだけど、

 こういう青春もあったんだろな~って気がした。

 ただ、なんていうのかな、

 人物の設定と描き方が、

 往年の少年漫画や少女漫画を足して割ったみたいな印象で、

 ぼくの住んでるみみっちい現実とは、

 ちょっとばかり懸け離れた観はあったかなあ。

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すべて彼女のために

2014年05月04日 13時36分23秒 | 洋画2008年

 ◎すべて彼女のために(仏Pour elle 英Anything for Her 2008年 フランス)

 人間は愛する者のためにどこまで法を犯す覚悟ができるのか?

 という主題なんだけど、

 まあなんとも簡潔な主題と題名と粗筋だこと。

 けど、

 ヴァンサン・サンドンが国語教師という知的な職業人ながらも、

 うだつのあがらなそうな風采の中年男であり、腕力にも自信のないことに対して、

 ダイアン・クルーガーのほぼ完璧といっていいほどの美貌と繊細さは、

 夫をして妻を救うために人生を賭けさせるだけのものがあると、

 観る者におもわせてしまう演出力には感服するほかない。

 とはいえ、

 出だしの濡れ場は必要といえば必要なんだけど、

 不可欠かといえばそうでもないような気もするし、

 このあたりは、フランス映画だからええやんって詞に集約させる。

 また、途中の、

 チンピラを殺害してまで目的を渡航費を得ようとするのは、

 う~ん、どうしたもんだろね~とおもっちゃうんだけど、

 このあたりも、フランス映画だからええやんって詞でかわすしかないな。

 でも、そんなこまかいことはどうでもよくて、

 全編を通して、

 その疾走感と緊迫感と哀惜感に、

 なみなみならないものがあったことは、事実だ。

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シカゴ

2014年05月03日 20時21分36秒 | 洋画2002年

 シカゴ(Chicago 2002年 アメリカ)

 ボブ・フォッシーの舞台の映画化だと聞いたとき、

 あ、それで、妙にセクシーだったのねとおもったのは、

 ぼくの頭の中から『オール・ザット・ジャズ』が離れずにいるからだ。

 ボブ・フォッシーはたぶん物凄く女好きだったんだろうな~と、

 羨ましいくらいにおもえるのは、

 女性の魅力をどうにも上手に受け止めてるからで、

 頭の中には女神がいっぱいいたんだろう。

 もともとこの作品はマドンナで映画化したいとおもっていたようで、

 なるほど、それもまた好かったんじゃないかとも感じた。

 で、この主役たちはどうかというと、

 なるほど、太い。

 レニー・ゼルウィガーは痩せたとはいえ、ぽっぺはいつもどおりふっくらしてる。

 踊りも歌もあんまりうまくないのはご愛嬌だし、

 また、お人好しで騙されやすい少女のような甘さときつさと頑張りを見せてくれるけど、

 やっぱり、印象として太い。

 キャサリン・ゼタ=ジョーンズはいつにもまして肉感的で、

 いやまじ、怖いくらいに官能的で、きつさとわがままぶりと自信たっぷりさが、

 嫌味なくらいにぷんぷんとしてるとはいえ、

 その踊りっぷりは大股を惜しげもなく開脚して、肉感的に見せつけてくれるものの、

 やっぱり、肩の肉がもりあがってるくらい、太い。

 ちょっとな~っていうくらい、ふたりの太さが気になった。

 ちなみに、

 リチャード・ギアみたいに人の好い男に、

 悪徳弁護士役ってのは、ちょっとばかしきつくないかしら?

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聯合艦隊司令長官 山本五十六

2014年05月02日 01時51分17秒 | 邦画2011年

 ◇聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実(2011年 日本)

 なんで、こんなに題名が長いんだ?

 という素朴な疑問はもとより、

 キャッチコピーの「誰よりも、戦争に反対した男がいた。」というのを、

「ほんとにそうなの?」

 という疑問をもって観た日本人はどれだけいるんだろ?

 ていうか、

 連合艦隊ではなく聯合艦隊と表記するんなら、

 なんで大東亜戦争じゃなくて太平洋戦争と表記したんだろ?

 帽子の二本の白線もさることながら、

 山本五十六の愛人だった河合千代子がまるで無視されていることや、

 ギャンブルが好きで仕方がなかったことや、

 ロンドン軍縮条約のおり「潜水艦の数を減らすな」と叫んだことや、

 ともかく、いろんなことが抜け落ちてる気がしてならないんだけど、

 いったいどこまで「実像に迫る」とかいう宣伝文句と合致してるんだろ?

 山本五十六を全否定するつもりもないし、

 戦争を美化するつもりもないんだけど、

 かつて東映が製作した反戦映画『大日本帝国』の方が主題は濃厚だった。

 大東亜戦争の正体についてもうすこし掘り下げないと、

 これまでの戦争映画となんら変わるところがないんじゃないかといわれても、

 仕方がないようにおもえちゃうんだけど、どうなんだろ?

 日米開戦は絶対にしてはならないという覚悟があるのなら、

 それを最後の最後までつらぬきとおすべきで、

 もっというなら叛乱をひきおこしてでも開戦を阻止するべきで、

 そういう軍人はぼくの知るかぎりひとりもいなかった、はずだ。

 にもかかわらず、なんでこの時代まで、

 米内、山本、井上の三人に、

 戦争反対論の要をしょわせるのかよくわかんないんだよね。

 もうすこしいえば、アメリカに対して、

「リメンバー・パールハーバー」

 という開戦の一大口実を作らせてしまったのは、

 申し訳ないながら、まぎれもなく山本五十六その人で、

 しかも、真珠湾攻撃で空母を一隻も撃沈できず、

 さらには、ミッドウェイ海戦を惨敗に追い込んだのも、そうだ。

 真珠湾やミッドウェイ以外に戦術はなかったのかという反省が、

 いまだに見られない物語ができてしまうのは、なぜなんだろう?

 山本五十六という提督の描き方がいっこうに変わらないのは、なぜなんだろう?

 昭和30~40年代の邦画の方が、

 もっと戦争に対していろんな角度から迫ってたような気がするのは、

 ぼくだけなんだろうか?

 まあ、なんにしても、ひとつだけ知りたいのは、

 この映画の主題はなんだったんだろうってことかしらね。

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