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我が地域、「多々羅」 自論

2011-05-12 22:28:36 | 観光ボランティアガイド

多々羅(たたら)の響きがこころを癒してくれる。
弥生時代のころに、朝鮮の渡来人、百済がやってきた。というよりも、弱小国の百済は、高句離や新羅に追われ、倭国に来たのではないか。
その時に大陸の生活文化を二つもたらし、この地域の発展に大きな影響を及ぼす。
一つは、蚕。中国から朝鮮半島に渡り、西暦100年前後に、日本に伝わった。その最初の養蚕地が、多々羅という。「日本最初外国蚕飼育旧跡」が府道65号線沿いに建っている。仁徳天皇のお后の磐之姫が天皇の浮気の為に、多々羅に来て、死ぬまで帰らなかった。歌人でもある、磐之姫が三度も姿を変遷する蚕を不可思議な気持ちでうたっている。蚕繭から、生糸、絹織物となり、需要が高まると同時に大化の改新以降、税として、絹製品を納めることが見られる。
もうひとつは、鉄の製造法。砂鉄と木炭を交互に炉に入れて溶かし加工するために、必要な高温の熱をつくりだす風を起こし、還元作用で鉄を取り出す。これを「たたら製鉄」という。百済人のにりくむ王が鉄工業を伝えたために、朝廷より、多々良の姓を与えられた。この近くの新宮社には、かつては、この子孫が祖神を祭神として、祀っていた。

継体天皇は百済と、越前時代に盛んに交流があり、その関係で多くの朝鮮人が住む京田辺を都としたのであろう。普賢寺川の水域が今よりも広範囲で水上交通が発達し、都にちなむところが方々に残る普賢寺や多々羅一帯は、筒城宮があったのではないかとまた思ってしまう。


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