世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
科学的手法を無視したウイルス対策
コロナ感染を防ぐ直接的な対策は検査数を増やすのが最優先だろう。
一斉休校を指示しようと 何しようと効果を測るのは検査しかない。医療的であろうと政治的であろうと科学的手法の基本である。
検査の窓口を一般医療機関に広げると 院内感染や医療体制の破壊を招くとの指摘もあるが それは体制の組み方の問題で 準備も含め政治の技術的な問題である。
感染の実態を把握抜きにした対策でも運よく拡大が収まるかもしれないが
対策の常道ではなく今後の教訓にならない。政治は間違わないとする中央集権的な権威主義や無謬主義が対策を害している。
希望に向かって
ウイルスが蔓延し 温暖化が進み 経済が立ち行かなくなろうと 人類は相変わらずだが 影響されて 変わっては来ている。
不合理な人間活動が収まるまで危機は続くのは自然の理。
自然と人の非科学的な関係が正常化するまで続くことを願う。幸福と希望を目指して!
どこに居ようと一つが良い
要は 世界と己が一つになれれば良いのだ
科学であれ美であ善であれ 何でも良いから この世に至るまで 現世 立ち去った後も一つとして感じ思えたら良い。
そんな境地を確かに出来れば どこに居ようと 言うこと無し。
科学を立て直す良いチャンス
ウイルスの発生や生体そのものが科学の対象で 騒ぎは科学とのせめぎ合いであり、人類の科学的能力が問われている。
今後の対応は科学的合理性が基になる。
これまで科学を軽んじてきたツケが国難 世界難人類難を招いている。
ウイルス騒ぎは科学を立て直す最高のチャンスにして 今後に生かしたいものだ。
手順手続きの大切さ
特別措置法が用意されてるらしいが 対策の全体像の中に位置づけるなら良いが それも見ず これまでの経過からすると権力の集中を強め不合理を増幅させかねない。
謝罪は勿論であり ドサクサに紛れて権力強化を図るものであってはならない。反省するならトップへの権力集中から集団指導体制への転換も
大事なポイントだろう。不満を逆手に利用してきたのはいつものパターンなのだから。
本気で「国難」か?
ウイルス感染拡大を「国難」としているが この国難の全体像を把握してのことだろうかと 疑問を感じる。
特措法を用意していると言うが 、既に影響は国民生活から経済にいたるまで 世界規模で激震している。
単なるウイルス拡大で対処できるような段階ではない。
全容を把握して総合的な対策を講じる段階であり こんな後追いの対処的な対応では これまで同様バタバタを増幅するばかりで 国難には抗えない
と考えている。この際 誘導するマスコミの法や手続き上の役割も検証すべきだろう。
解決への環境づくり
宗教は人類の世界観に何らかの形で影響しているから 宗教の社会的役割は大きい。
しかし、今その役割を積極的に果たしているとは言い難く宗教が持つ課題かもしれない。
今の世界難がこの課題に向かわせるのではないかと期待している。
知的対応が求められるこの時代だが 日本の対応は視野狭く 役人に下駄を預け 勢力争いに明け暮れるのは 最も避けたいところ。対応の環境を整えなければ想定外のことが起きるのは経験値。
気が付けば良いだけ
「国難」とは言うものの 状況は「世界難」「人類難」と言い換えられそう。
全てのことは必然性をもって成るべくして成っているのだから 現状を基にスタートにすれば良い。
先ずは 現状がどうなっているかを探し当てることから始まる。
そんな議論が各界 各層 至るとっころで 生きてる全ての人が始めると良い と思う。
それだけで今の先行きの見えない不安は希望に変わるだろう。
要するに 道に迷っている己に気が付けば良いだけなんだ。
欧米では哲学を幼児に至るまで身近なものにしている由縁かもしれない。
等しく覚悟と構え
これから日本はウイルスの患者の増加が危惧され首相も」国難」の言葉を使った。
個人的には 経済危機が加わりさらに夏場に向けて熱中症と暴風雨が加わるだろうと予測している。
オリンピックに向けて 国難は高まるだろう と思う。
(もちろんそうでないことを願っているが)私たち生活者はそのぐらいのことを覚悟し心構えや出来るだけの準備をしておいた方が良いと考えている。
為政者や国の管理を担当する人たちは準備は勿論 国難に至った原因や背景 解決への理念や構想を模索し練り上げてほしい。
いづれ国難は長期にわたり その構えは 市民も為政者も等しく課せられている と考えている。