オルセー美術館のクロード・モネです。
クロード・モネ Claude Monet (1840 - 1926)
- チューブ入りの絵の具を手にしたモネら印象派の画家は、屋外に出て、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」を表現することを追求した。
- 1865年のサロン・ド・パリ(展覧会)に2作品が初入選した際、名前が似ているマネが憤慨したため、クロード・モネで署名するようになった。
- 1866年のサロンにも2作品が入選したが、1867年の「庭の女性たち」(表紙)は時間を費やした大作ながら落選し落胆する。息子ジャンも生まれたが、絵が売れず経済的に困窮していた。
- サロンに落選したモネ、ドガ、ルノワールなど印象派グループは、1874年に独立した展覧会(第1回印象派展)を開催。モネが出品した「印象・日の出」が、印象派の名前の由来となった。
- 同じ構図で光の変化を変える、積みわらなどの「連作」が米国を含め人気となり、経済的に安定。
- 1890年にジヴェルニーの家に作った「花の庭」に加え、1893年に隣の敷地を購入し川の水を引き睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作った。睡蓮の連作を数多く描いた。
庭の女性たち Femmes au jardin 1867年
4人の女性は、後に、妻となるカミーユがモデル。縦255cm×横205cmとかなり大きい。(表紙の写真)
- モネは、庭にキャンバスを立て、光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に制作を始め、太陽が雲で隠れると筆を止めた。
- 絵筆を持ったまま動かないモネの姿に「なぜ描かないのか」と聞かれ、モネは「あのせいだ」と言って雲を指したというエピソードがある。
- 大きな絵なので、庭に溝を掘り、滑車でキャンバスを溝に降ろし、視点を変えることなく、絵の上部を描き上げた。
降り注いだ太陽光で眩く白いドレスや小道と、それらが木の影によって色を失う様子が鮮明で印象的。しかし、肖像画のような写実性がない、筆跡が残り稚拙と評価され落選。
ロッシュ・ノワールのホテル.トルヴィル Hôtel des Roches Noires. Trouville 1870年
結婚式後、若い妻カミーユとリゾート地トゥルーヴィルに滞在。赤と白の縞模様が自由な筆致で描かれた旗が、印象的。
ホテルから出てくる人影が、カミーユではないかと想像させる。
ザーンダム Zaandam 1871年
普仏戦争を避け、ロンドンやオランダのザーンダムに滞在し、絵を描いた。
雲や水面に映る色づいた木々がいいね。
モネは、1871年12月、パリ近郊のセーヌ川に面したアルジャントゥイユに、マネの世話でアトリエを構え、6年間でセーヌ河畔の風景や日常を数多く描いた。
ひなげし Coquelicots 1873年
1874年に、第1回印象派展で一般公開した有名な作品。妻カミーユと長男のジャン。「昼食」1873年
庭で昼食をとろうとする長男ジャンの姿が描かれている。第2回印象派展出品
白いテーブルクロスやジャンが、所々、木陰になる表現が巧み。
アルジャントゥイユ橋 Le Pont d'Argenteuil 1874年
第2回印象派展。マストや家に光が当たると、川面に反射する補色(オレンジとブルー)が、きらびやか。
アルジャントゥイユの鉄道橋 Le Pont du chemin de fer à Argenteuil 1874年
汽車の煙が、風と光を受け、たなびいて消えていく様子がいいね。
ボート,アルジャントゥイユのレガッタ Les Barques. Régates à Argenteuil 1874年頃
風と光を受ける帆を表現。川面に映る空が、風波で揺れている。
アルジャントゥイユでの生活に出費がかさみ、モネは借金に追われ、家具の競売を求められたうえ、妻カミーユが病気に倒れた。
1878年にパリに戻り、次男ミシェルが生まれたが、経済的に苦しい中、カミーユは病気が悪化し、1879年32歳で死去した。
1883年、パリ郊外のジヴェルニーに移り、1926年に没するまで、この地で制作を続けた。
パトロンだった実業家エルネスト・オシュデが破産し、妻アリスと6人の子供達と、モネは同居することとなった。
戸外の人物習作:右向きの日傘をさす女 Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la droite 1886年
1875年に妻カミーユと長男を画いた「散歩、日傘をさす女」と同じ構図だが、顔はぼかしており、病死した妻カミーユを思い出しながら、後に2番目の妻となるアリスの娘シュザンヌ(18歳)をモデルに画いたとされている。
売ることはなく、死ぬまでモネが保持していた。切ないね。
1927年、モネの死後に、次男ミシェル・モネが、ルーブル美術館に寄贈。
戸外の人物習作:左向きの日傘をさす女 Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la gauche 1886年
2枚の絵は、右から吹く風を、日傘で巧みに表現している。
風上に向けてしっかりと右腕で支え(上の絵)、風を背に背中と頭で日傘を支えている(下の絵)。
ノルウェー語で En norvégienne 1887年頃
モネが晩年になるにつれてほとんど描かなくなった戸外の人物像の、ほぼ最後の作品とされている。
3人はモネの後妻となるアリス・オシュデの娘たちで、左からジェルメーヌ(14歳)、シュザンヌ(19歳)、ブランシュ(22歳、10年後にジャンと結婚)の3人。
積みわら、夏の終わり Meules, fin de l'été 1891年
一つのテーマを同じ構図で、天候や時刻の違いなど光の効果だけを変える「連作」を始める。
「積みわらのさまざまな光の連作に夢中なのです。描き進めるに従って、私が求めているもの―「瞬間性」、とりわけ物を取り囲む大気と、至るところに輝く均一な光―を表現するためには、もっと努力しなければいけないことが分かるのです。」
積みわらの連作で、米国を含め、一気に人気画家になった。
1892年、エルネスト・オシュデの死の翌年、モネはアリスと結婚した。
ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流 Bras de Seine près de Giverny 1897
睡蓮の池、緑のハーモニー Le Bassin aux nymphéas, harmonie verte 1899年
浮世絵の影響を受けたとされる。同じ構図で「日本の橋と睡蓮の池」という作品がある。
モネの連作には、積みわら、ルーアン大聖堂、睡蓮、ウオーター・ルー橋、国会議事堂など。
1914年、睡蓮の大画面作品を描くためアトリエを建て、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを4枚繋げて睡蓮大装飾画を制作し、1921年オランジュリー美術館の2つのホールに寄贈することとし、生涯をかけて制作に取組んだ。
1926年永眠。1927年オランジュリー美術館の睡蓮の除幕式。
モネの絵は日本でもファンの多い画家のひとりですよね。私も好きです。
昔、景気が良かった時代に損保会社かでもらった大きなカレンダーにモネの絵があり人物が描かれていたと思います。それがとても美しくて好きになりました。
今回も詳しい解説をありがとうございます。大変勉強になりました✨
絵画は全くの素人なので、せっかく本物を見たので、作品が描かれた背景を調べたくなりました。美術館のHPが詳しくて、とても勉強になりました。
コメントに感謝します。