2日目は石巻市を回った。
前宮城県議の佐々木喜蔵さんのお取り計らいで、復興支援コーディネーターをしておられる《コンシェルジュ石巻》の菊田貞吾代表に案内をしていただいた。
海岸沿いの被害は甚大で、主要産業の水産業がまだまだ復活にはほど遠い状況だった。仮のテント倉庫で作業が行われていた。
ガレキや車などがあちこちにうず高く積みあがっていた。
門脇小学校では、グラウンドに車を停め、中で暖をとっていた方々が津波でたくさんお亡くなりになったそうだ。
校舎内に避難していた方々は車が校舎にぶつかり、燃え上がったので、裏山に教壇を渡して、なんとか逃げられたということだった。
校舎内にはランドセルが残され、“ユニセフ”の棚も残っていた。
昼に石巻市役所を訪問した。
石巻市は議会開会中だったが、昼休みの合い間をぬって、亀山紘市長が復興計画を説明して下さった。
最後に、多くの児童が亡くなった大川小学校を訪ねた。
学校のすぐ近くの高台(写真左の木が立っているところ)が避難場所に指定されていたが、平屋の校舎から高い堤防に遮られて、津波の高さが見えず、津波に向かって避難してしまった先生と子どもたちの多くが亡くなられた。
津波さえ来なければ、この学校には子どもたちの歓声と笑顔にあふれていたのだと思うと、本当に胸が締め付けられる思いになった。
この2日間の宮城県視察で、昨年の福島県視察とはまた違ったことを学ぶことができた。
前回は震災直後で、現地の方からお話を聞くことがほとんどできなかったが、今回は生の声をたくさん聞くことができた。
「ガレキは、まだ一か所に集めただけ。これから処理とその先に集団移転や区画整理、港湾の復旧、公共施設の再建などの復興事業がうず高く積まれている。やれるかどうか、ではない。俺らはやらなければならないのだ」と現地のリーダーの皆さんは口々におっしゃった。
コンシェルジュ石巻の菊田代表は、「石巻の物産を買ってもらえるような機会を京都で作ってもらえるなら、店を集めて喜んで行きます」とおっしゃっておられた。
何が必要なのか、何ができるのか、自らの地域が学んで取り入れることは何か、じっくり整理したい。