四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

髙倉神社と以仁王伝説

2020年07月20日 | 歴史の探求

 20日㈪は夕方、種清喜之幹事長、熊谷正章会計、大槻悟会計監査に集まっていただき、自民党綾部支部の会計監査をしていただいた。

 21日㈫、朝8時から吉美地区髙倉神社土用の丑の祭礼参拝した。

 昨年の「御用聞きの会」の際に、「ぜひ都合がつけば参拝してほしい」という要望をいただき、今回初めて祭礼に参拝させていただいた。

 髙倉神社後白河法皇の第二皇子・髙倉宮以仁王祀っている。

 以仁王「平清盛追討の令旨」を出し、源頼政と共に挙兵したが、宇治平等院での戦いに敗れて、頼政は自刃し、以仁王も奈良へ援軍を求めて落ち延びる途中で命を落とした、とされているが、実は大槻光頼、渡邊俊久ら、十二人の家臣と共に頼政の領地のあった丹波へ落ち延びられ、綾部市吉美地区の里町(現在の里宮髙倉神社)まで来られた。

 人々は尊い以仁王の姿を拝し、笛や太鼓で田楽踊りを舞った。これが今も伝わる「ひやそ踊り」だと言われている。

 治療の甲斐もなく、以仁王の矢傷は次第に悪化し、治承4年(1180年)6月9日「後世、庶民の腹痛の悩みを吾れ代わって救わん」との言葉を遺して、29歳で亡くなられたという。

 翌年9月9日、以仁王の神霊を奥谷の森の髙倉(現在地)に移し、ここに「髙倉天一大明神」として以仁王を祀る髙倉神社が創建され、以来、地元の方々によって守られて今に至っている。

 境内には、以仁王に従った十二人の家臣を祀る十二士神社もあり、十二士の子孫の方々も参拝しておられた。今でも十二家が絶えずに親交が続いているそうだ。

 十二士はあえて神社の近くには住まず、綾部市内の各地に分かれて、平安時代末期から今まで、髙倉神社とはつかず離れずでお守りされていると聞き、驚くべき忠義心だと感じた。

 土用の丑の祭礼では「はらわた餅」が販売されており、人気がある。今日は委員会で府議会に行くので、自民党府議団の他の議員さん方にも食べてもらった。

 

 祭礼後、京都に向かい、11時45分から農商工労働常任委員会正副委員長会、12時半から議員団会議、13時半から農商工労働常任委員会に出席した。

 委員会では「コロナの影響を踏まえた施策展開について」というテーマで、農林水産部、商工労働観光部からそれぞれ説明を聴取した後、委員との質疑を行った。

 電話相談等で寄せられている様々な声や業界ごとの要望についても説明があり、また現在の補助金申請数の報告もあったが、まだまだ予算にはゆとりがあるので、ぜひもっと申請いただければと感じた。

 

 夜は綾部に戻って、久しぶりに「ほろにがクラブ」に出席。アサヒビールの愛好者が毎月集まり、ビールで乾杯している。月に2,000円ちょっとの会費なので、ビール好きの方にはお得な会だ。

 私は都合がついて出席できるのが年に2~3回なのだが、幅広い世代、業種の方がおられて刺激になる。


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